Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

面白さの分類と探求~The Indifference Engine を題材に~

 書くだけ書いて、更新の意志がない物たちを供養しておこうと思ったので、連続で過去に書いたものを投稿する。ほぼすべて未完成のままだ。

以下の文の最終更新は2016年2月8日、とある。

 

 伊藤計劃の短編集、「The Indifference Engine」(以下IEとも書く)を最近再読している。というのは、この短編集に収録されているストーリィがとても面白く、また、その面白さの種類が重なりつつも異なるものが感じられ、ぜひに考察して精読しようという気にさせてくれたからだ。万華鏡、あるいは三つの集合を表わすベン図を思い浮かべてほしい。光の三原色を示す図でもいい。

 さらに、最近自覚し、また気になっている事柄にも関係が深い感じがした。架空の世界、フィクションとの距離感と文体の問題、リアリティと感情移入のタイプ、などの問題群だ。

  抽象論を述べるにはまだアイディアの体系化が果たされていない。そもそも思い付いたネタの整理とそのさらなる考察のためにこの文章は書かれているのだ。

 具体的に「IE」の短編を追っていきながら感想、注釈を付けて行こう。

 

 ちなみにハヤサカ文庫版である(言及の必要はないかもしれないが)。

 

 目次から拾っていく。

 

女王陛下の所有物

The Indifference Engine

 Hevenscape

フォックスの葬送

セカイ、蛮族、ぼく。

A.T.D

From The Noting , With Love .

解説

 

 「女王陛下の所有物」

 これは関連する「From The Noting , Wih Love .」と一緒にあとで扱う。

 

 「The Indefference Engine」

 表題作。今回わたしが注目したい短編3つのうちの1つ目だ。これは氏の虐殺器官のスピンオフらしいが、別に読んでなくても問題はない。ちょっと世界観の把握が楽になったり、端役で虐殺の脇役が登場するぐらいだ。登場する兵器の想像が些か楽、ぐらい。虐殺器官もこのIEも紛争、および戦闘が出てくる。

 先に言っておこう。この短編の面白さは、「暴力」にある、と。

 わたしが考えている、面白さの分類がある。詳しくは以前の日記を参照してもらいたいのだが、この、「IE」で特に強く感じる面白さは、「視聴覚的な面白さ」だ。あるいはいま思いついた別名だが、「刹那的な面白さ」と呼んでもいいだろう。時間的連なり、あるいは同じことだが因果的積み重ねを持たない、瞬間的に味わうことのできる面白さだ。文章の美しさ、あるいは漫画やアニメならば、描線の美しさ、動きの気持ちよさ、といった、時間の幅を持つ必要のあまりない快楽をここでは「視聴覚的な面白さ」ないし「刹那的な面白さ」と呼ぶ。

 「IE」はもちろんそれ以外の面白さも詰まっている。ロジックとエモーションとの絡み合いが一本の筋となって表象される小説という媒体において、それは当然のことだ。ただ、上に言う3つの短編のなかで、「刹那的面白さ」を代表してもらいたい短編である、ということだ。

 まずは冒頭の描写を見てみよう。これはIEの冒頭そのままだ。

  二十の死体をまたぎ超えたところで、赤土の丘を登りきった。

 星空が水面に映りこんでいるかのようだ。青みがかった闇いちめんに、光の点が密集してまたたいている。

 けれど、丘の上から見下ろす前方の風景に、水面などこれっぽっちもないことを、ぼくは知っている。それは人の光。料理し、勉強し、家族が団欒する光のまたたきだ。

 あの光。あの温かみ。ぼくは大きく息を吸い込んだ。周囲にきつく漂う小銃弾の硝煙や、肉の焼けるにおいや、死体が垂れ流す糞尿のにおい等々に混じり、あの星々からかすかな生活のにおいが風に乗って運ばれてくるのが感じられる。

 けものたちが遠巻きにぼくらを見つめているのがわかる。無造作に転がるねじれた骸にありつこうとしているのだ。街からすこし離れただけで、この大地ではこうした野生がむき出しになっているという現実に、かつてここにやってきた白人たちはえらく驚いていたものだ。

 さあ、行進しよう、とぼくは穏やかに呼びかけた。

 のろまも、せっかちも、思い思いに。足並みなんてばらばらでかまわない。

 のっぽも、ちびも、ぼくらは歩く。丘を下って。

 人の営み、生活の匂い。

 それを運ぶ涼やかな風の上方へと。

 

  面白くないか?すでにこの段階で面白くはないか?ここにはまだ「物語」はない。ぼくという人物と景色の描写だけだ。いや、物語を思わせる広がりだけがある、と言おうか?だが、すでにここには圧倒的な面白さがある。先を読ませる求心力がある。つかみはOK、というやつだ。すでに勝っている。「勝ったぞ、綺礼、この戦い、我々の勝利だ(CV速水奨)」というやつだ(ん?これは死亡フラグか)。

 この小説の評価はこの段階ですでにかなり上位のものにならざるを得ないことが分かると思う。涼やかな文体と冷静な筆致、しかし内容はといえば少々どぎつい。二十の死体とか、ねじれた骸にありつこうとする獣など、平和を享受する我々の注意を引く危険な単語群だ。抑制された文体が読みやすさと文章そのものの美しさを担保しつつ、ショッキングな内容で読者をつかんで引きずり込んでくる。

 これだ、これをわたしは「刹那的な面白さ」の典型例として提出したい。

 

 すこし手遅れかもしれないが、面白さの分類について述べる。

 面白さには種類がある。わたしはそれを以下の三種に分けて考えたい。すなわち、

「刹那的面白さ」、「物語的面白さ」、そして「根源的面白さ」だ。

 

 

 

 

ここまでが、2016年2月8日に書かれた。しかしこのまま投稿するのはいかにも不親切と思われたので、すこしだけ追記をする。

 

「物語的面白さ」とは、「刹那的面白さ」と対にあるいは対比する概念である。すなわち、時間的積み重なりを必要とする、語りのギミックや、キャラクターの感情の揺らぎ、決意、行動などによって生まれる、感情的、あるいは脚本的な面白さのことだ。普通、脚本がよいとか、キャラがよいとかは分けて扱われると思うが、わたしは同じ分類にする。以前の考察や感想文などを読んでくれている読者諸賢には説明不要かもしれないが、人格と物語は不可分かつほとんど同じものだと考えているからだ。何より、三つの分類において、もっとも重要なものはこれら二つではなく、最後の「根源的面白さ」のことであり、畢竟、「面白さ」とはこれ一つのことである、と考えるからである。

 

 急ぎ足で結論まで書いてしまった。少し戻る。

 伊藤計劃の短編集のなかで、この二番目、「物語的面白さ」がとくに味わえるのは、「フォックスの葬送」だ。これはメタルギアソリッドシリーズの伊藤計劃の手による二次創作であろう。わたしはメタルギア未体験なので、感想を述べることはいささかはばかられるのだが、これ一つだけでもかなりの読みごたえと感動、もとい感傷が味わえる。2016年の時点では言えなかった感想を述べるなら、「エモい」のである。この言葉ももはや陳腐化、死語となりつつある気もするが。「物語的面白さ」とは大雑把に言えば「エモさ」なのだと思う。

 

 「根源的面白さ」について語ろうと思う。思うがしかし、この面白さはその根源性ゆえ語りにくく、また実際「面白さ」とはすなわちこれのことだ、という気分なので、それそのものについて語るべき言葉を(あれから二年以上の月日を経たにもかかわらず)わたしは持たない。面白さの三分類という概念も、この最後の一つを考察するために考えた道具であった。しかし、この三つはそれぞれに独立しているわけではもちろんなく、「刹那」と「物語」とが相補的に関係しつつ、それら二つの下に「根源」が流れ、また逆に「刹那」と「物語」によって「根源」が成立する、という構造をしている。と思う。

 「刹那」や「物語」によって人間の「根源」へ迫る。それが「面白さの本質」である。という言い方もできるかもしれない。

 「根源的面白さ」は恐怖や畏怖、あるいは人生観や生命観、倫理観などにかかわる。物語の享受者をただの観測者の立場にとどまらせておかない力を持つこともある。

 「根源的面白さ」というフレーズをわたしが思いついたときに浮かんだのは、エヴァ初号機の暴走シーン、レリエルの体内からの脱出シーンであった。あれはいまもって何が面白いのか言葉で説明が難しいが、とにかくインパクトがあるシーンだった。そういう面白さを「根源的」と呼んでいる。つまりよくわからない面白さという意味であって、結局この考察は何を言っているのかあまり意味がない。

 

 話を短編に戻す。「From The Noting , Wih Love .」が「根源的な面白さ」をとくに強く有しているとわたしは感じた。この短編にみられる「意識」に対する発想はのちに「ハーモニー」へ受け継がれている。いまだかつて人類史上、「意識」を理解した人類はいない。そして、これほど人類にとって自明かつ重要な概念もない。伊藤計劃がこれらの作品群で示した視座は我々に対して根源的で暴力的な力を持ちうる。

 

 

最低限の尻拭いは終えたと思うのでここで筆をおく。