Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

ジャンプがない週の日記

いかなる問題もそれをつくりだした同じ意識によって解決することは出来ません

───アルバート・アインシュタイン 

 

 

 どうも、好きな三騎士クラスは当然セイバー、門倉亜人です。

 FGOの話ですが、コラボイベントが始まりましたね。終局特異点を蹂躙するまで、本編とそれ以外のイベントストーリィはそれなりに独立事象だと認識していましたが、最後にみんなで突っ込んできたので認識を改めました。そして今回のコラボイベ、もはやコラボとか、イベントとかそういう次元じゃありませんね。だってエピックオブレムナントエクストラって書いてあるもの。完全に1.5部の一部、断章の一つと認識してかかるべきでしょう。まぁだから何だって話ですけどね。わたしはただ、いま目の前で繰り広げられる総て、悲喜交々に一喜一憂、脊髄反射で耽溺するだけですので、考察だの、他世界(さくひん)との矛盾だのにかかわるつもりはありませんゆえ。

 どっちかでいいからアルターエゴ欲しい。しかしどちらにも共鳴する要素無かりければ、望みは薄いと言わざるを得ない。おもえばわたしと通底する要素を感じるやつ以外あまり来ないような気も。武蔵、土方、エドモン、オジマンディアス、各種バーサーカ達・・・どことなくわたしに似ている、気がする。

 性的な意味で欲しいサーバントは来ない傾向にある。それにしてもぞっとしたのは、アルターエゴ来いと願いながら引いた呼び府二枚が二連続できよひーだったこと。その後の十連もきよひーひとりに牛若丸二人。

 ・・・警告のつもりかね君たち。

  人間は無意味で独立な事実の羅列にも、いや、それらにこそ、感情や因果や、すなわち物語を読み込まざるを得ない。そういう性(さが)と業を、自由に行使できる権能としてではなく、否応なくせざるを得ない生存にかかわる生態として持っている、ということを感じざるを得ない例ですね。我がことながら。

 

 ガチャの話やめ。最近の「面白さ」とか、創作に対する感慨についての話をしませう。ある書籍で脚本の書き方を勉強しているのだが、もちろん、面白い本、漫画を描くためだが、やはり「面白さ」以上の価値というものがあるのではないかと思い始めたりなんだり。良い椅子とは、座り心地の良い椅子だ。それが椅子の良さであり第一に優先される基準だ。だが、漫画ひいては創作は?「面白い創作」が必ず「良い創作」なのか?マンガの最優先の基準の「良さ」とは「面白さ」なのだろうか?

 わたしは屈折しているのかもしれないが、「面白さ」のためのテクニックを学んでいるとどうもそういう気分になってくる。それともいわゆるテーマとかそういうたぐいのものも「面白さ」の一要素、スパイスの一つに過ぎないのだろうか。

 とても幼稚な場所にわたしは立っていると感じる。ここはわたしが小学生の時分に通り過ぎた場所である。「テーマ」こそ、マンガだ。思想の込められたマンガこそ至高であるべきであると、彼は答えたはず。いや、くだらなさ、荒唐無稽さ、無意味さこそが荒涼とした日常における唯一の癒しでありエンターテインメントなのだと、いくらか時を経た彼は答えるだろう。まさかまたここに舞い戻ることになろうとは思いもせなんだ。人生、人間性、訓戒、倫理、思想、それらはすべて「面白さ」を引き立てるためのスパイス、すべては「面白さ」の前に屈服し、隷属する、それが先日までのわたしの創作観であったはず。

 

 ・・・思索の道程はこれだから、「面白い」。

 

 つまらない話だったかもしれませんね、ではまた、来週。