Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

ジャンプの感想でも

 我は空、我は刃、我は人の身を捨て、修羅と化す。自ら真名を捨て、亜人(あじん)を名乗らん。

姓は門倉、名は亜人(アァト)、我、悪を断つ剣(つるぎ)なり。

 

 

 書くことがない。二月、三月と連ちゃんで体を壊し、十年ぶりぐらいに病院に行ったので、病床に伏せ続けたため何もできなかった。伊藤計劃よろしく闘病ブログにしようかとも思ったが、やめておいた。たしかにこのブログは伊藤計劃リスペクトでスタートしたが、ブログを書く元気もない程であった。日本の自殺理由のトップを知っているか?二位が生活苦で一位が病苦だそうだ。納得したよ。死ぬような病でなくとも内蔵の苦痛は耐えがたい。みんな、健康診断とかに行こうな!

 というわけで書くことがない。あった試しもないか。ジャンプの感想を書く。

 

 火の丸相撲がずっと熱い。すごい。今週は辻だ。肺に持病を抱え20秒しか全力で戦うことのできない、期間限定の最強力士。熱い、あついねぇ。これは勝ちましたな。

 

 左門君がシリアス展開に入っている。わたしはマステマが好きでな。まさかこんなに早く出番があるとはおもっていなかったので大変うれしい。これが僥倖というやつか?左門君はシリアス展開こそが面白いと思っているのだが、シリアスに入ると順位が下がっているように見受けられる。また「あの」ジンクスだろうか。勘弁してほしい。左門君は来週から回想に入るようだが、これも順位が揺らぎやすいみたいだ、頑張って人気作品になってほしい。主人公がクズという変化球マンガに見えるが、ギャグやシリアスの展開などは「荒木飛呂彦の漫画術」の見地から見ればきっと王道だ。がんばれ左門君、がんばれマステマ

 マステマのウザ芸が愛おしい。あとルキフグスがかっこいい。やはり日本刀は良いものだ。

 余談だが、今週のマステマの二度にわたる神回避シーン、あれは実に良い。見て、判断して、それから躱すのでは到底間に合わんところ、怖気、殺気を感じて予め躱す。正しい。予め躱してもあのクラスの攻撃はジャスト回避になってしまうようだが。あれはファンタジーではないぞ?現実に我々の世界に存在する訓練で身につく技術だ。ゆえにリアルでよいシーンだった。見聞色の覇気のようなものだ。この話長くなりそうだし本筋と関係ないからやめるね。

 

 ジャンプの話は飽きた。刃牙の話をする。

 武蔵VS機動隊が始まった。装備に頼りすぎるとろくでもない死に方をする、という好例となってしまったな。南無。なんで装甲車から降りた!?まずヘリでぶっ放せばよいものを。とにかくあれはサットだかスワットだかの失策だ。武蔵に対して人として対峙するのは愚策オブ愚策である。絶対に乗物から降りてはいけない。死ぬぞ。装甲車でひき殺すなり、ヘリからスナイプするなりしろ!

 とにかく武蔵が強くて強くて面白い。なんか刃牙とか独歩とかが守護るとかなんとか先週か先々週に宣っていた気がするが、どうするのか、何を守護るのか。多分機動隊を守護ると言ってるのだろうが。武蔵から守護れると!?無駄無駄ァ!とにかくこれからも刃牙道から目が離せん。もっと、もっともっともっと武蔵には人を斬っていただきたい。

 

 

 本当はこのあとけものフレンズの話を書こうと思ってここまで書いて保存していたのだが、あっという間に次の月曜日になってしまった。上記のジャンプは先週の話である。けものフレンズについては今回は何も言わないでおこうと思う。語るべきことは何もないように思われた。わたしがすべきことはただ、視聴することだけだ。

 

おわり

リアリティについての雑感

 ふはははは!!余である!門倉である!皆、息災か!?(挨拶)余はもうだめである!ははははは!余の世界に希望(ひかり)なし!余の生活(じんせい)に続編(みらい)なし!よい、赦す!いずれ来る好機を待つもよし!このまま朽ち果てるもよし!

 

 表題のごとくである。世界(観)と享受者の態度の違いまたはその間(あわい)についてつらつらと述べる。

 ミステリ小説が苦手である。リアリティを感じることがあまりない。例外はあるが。享受の場面におけるリアリティとは享受者の世界への没入感と同義といっていいだろう。ミステリに没入することは多くの場合わたしにとり難しい。登場人物がまるで死ぬために配置されているように感じること多々。謎が主で人(キャラ)が従、そのような印象を受けた時、もはやかの世界に没入すること能わず。

 著名な漫画家、荒木飛呂彦はその仕事術を公開した著書「荒木飛呂彦の漫画術」で概略このように述べていた。できることなら引用したいのだが手元に見つからないので、記憶に頼らせてもらう。

「読者はその世界に没頭したいのであって、それを妨げるようなことは決してしてはいけない、冷めさせては失敗である。」

と。ミステリは冷める。世界に没頭できない。

 しかし、ミステリの主役は文字通り「謎(ミステリ)」であるのだろう。であれば、謎が主であるのはむしろ尤もといえる。そしてミステリは根強い人気があるジャンルであることは疑いようもない。

 ここである視点の転換がわたしに生じる。ミステリ読者は世界に没頭したいわけではない?のか?と。ただ謎に対面したいのか?と。

 享受者の態度にはいくつかの種類があるということが分かってくる。普通は小中学生くらいで気づくものなのだろうが。世界観や謎という要素はいうなれば舞台装置だ。人(キャラ)がそこで運動し生活するための地面、それは生存にとっての酸素のごとく重要なものだが、我々は呼吸をするために生きているのではないのと同じく、わたしは舞台装置を見たいわけではない。が、舞台装置を見たい享受者というものもいるのだ。たしかに、テーマパークのアトラクションなどにはそのようなギミックを楽しみに行くという態度があり得、それは想像できる。ミステリや人によってはSFなどもその型(タイプ)の享受があるようである。そして思い返してみるならば、そのような享受の型を自らも行った覚えがある。サメ映画とか、なんかそういういわゆるB級のようなバカ映画に対して。

 伊藤計劃は議会フェチだったそうである。エヴァンゲリオンのゼーレのようなものだろう。わたしもすこしそのケがあるような気もするが、伊藤計劃の記述に接するまで自覚がなかった。この享受も今思えばこのような型(タイプ)の享受ではないか。

 創作(フィクション)の享受にはいろいろある。リアリティ(没入感)の深浅は、享受者の趣味態度、作品のジャンルなどによっても変わってくるし、またデジタルに分けられるものでもない。バカ映画のつもりで見ていたら思いがけず引き込まれてしまったということは全く普通にありうることだ。

 享受の型(タイプ)とリアリティの関係についてすこし考えてみた。この話題はもう少し粘るべき感触もあるが、今回はここまでにしておく。この構造はかなり複雑でかつ動的であるだろう。以前から述べている「面白さの3分類」にも関わるに違いない。というより、これはその別の側面からの分析、だろうか?

 最後に思いついたことを少し。世界への没入感は人物(キャラ)への感情移入を含むが、それのみに縛られるわけではなさそうだ。

 

随筆なので続かないだろう。以上。

FGO日記

 どうも、門倉亜人です。好きなコマンドカードはバスターです。戦略を立てるのは脳筋できない弱者のやることです。

 最近FGOのプレイスタイルが変わってきたのでぼそぼそ日記にします。

 

 我々マスターは弱者です。資源は有限であり、ステータスも上限があり、打てる手(コマンドカード)も限られます。部下に気持ちよく脳筋させるために弱者である我々は戦略を練ります。

 イベントで周回用のパーティを組む必要に迫られた結果、新しい組み合わせや戦略に目覚めてきましたね。最近覚えたパーティの組み立て方の基本的な思想は、「優先的にコマンドカードを選びたい奴は二人まで」です。サポートにしろアタッカーにしろ、コマンドカードで敵を殴らなければ活躍が見込めないやつは二人までにしておこう、ということです。コマンドカードは一人五枚の三倍で十五枚のうち、三ターンで九枚しか選べないので、優先したいカードばかりでは力を発揮できないものが現れます。スキルで十分活躍できる、または礼装を持って立ってるだけで役に立つやつを入れましょう。スター集中傾向を傾斜させて星を生むだけでも活躍といえます。(でも本当は三人全員が互いに支援しあうアタッカーで組みたい。)

 その思想で組まれたパーティが、

エドモン、ハロエリ、ビリー(または小次郎)

です。ハロエリちゃんは突っ立てるだけで活躍です。かわいいし。かわいいは活躍です。

 ところで、最近カーミラさんの強さに気が付きました。敵を殴ってNPをためるタイプなのでガンガン殴りにいかないといけません。殴ってクリッて宝具でグルグル。なるほど、なるほど。NP効率的な意味での星の有用性に目覚めた今、ますます欠片礼装がほしいですね。ない。

 X・オルタもいない。欲しさでいうと山の翁の次くらいに欲しい。沖田くらい。

 

 新しいパーティを回しても一度解体すると翌日には忘れてしまいます。チョコ集め用のパーティがもう思い出せない・・・

 

終わり。疲れの感じられる日記ですね。たぶん続きません。

創作する、の2

 「ーー体は理(ことわり)で出来ている。

  血潮は炎(いかり)で、心はくず鉄。

  幾度の戦場を経て惨敗、

  ただの一度も勝利はなく、

  ただの一度も満たされない。

  担い手はどこにもおらず、

  煙の丘で慟哭す。

  その総てはきっと虚飾(うそ)で出来ていた。」

 

そう、わたしです、門倉亜人です。なかなか良いアレンジができた気がします。

創作意欲そそる出来事がありましたので、ゾンビ物の続きです。

 

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雑談

 どうも、好きな十本刀は魚沼宇水。門倉アァトです。

彼は他人とは思えない。わたしもそのうち信念を貫けず、惨めに死ぬんでしょう、きっと。具体的な死を知らぬまま、観念としての死にばかり取りつかれて十のころからいままで生きてきました。

書くことがないにも関わらず書きます。

 

 

 

 面白いことがないという感じがし続けています。そう表現してしまうとそれは偽りなのですが、しかし気持ちとしてはそうなのです。何をしてもすぐに瞬間に刹那におもしろきことは忘却へ消え去り、虚しさと残り火のような微かな怒りばかりの生活をしています。

 

 まぁいいです。面白かったことの話をします。

 

 今週もジャンプは良かった。やはりヒーローアカデミアが特に。自分の好みはやはりキャラターによるところが大きいのでしょう。面白いやつ、カッコいいやつ、強いやつ、他人とは思えないやつ、会ったことはないが友達だと思えるやつ、そういうキャラクターがいる漫画が、わたしのとくに執着する面白いマンガです。ヒーローアカデミアはその傾向がとても強い。善きにせよ悪しきにせよ、キャラクターが大変魅力的です。

 

 てきとうな話をします。たびたび取り上げていますが、面白さの三分類について書きつらねます。

 おさらい。わたしが個人の趣味で考えた面白さの三分類とは、

「刹那的な面白さ」、

「物語的な面白さ」、

「根源的な面白さ」

の三つでした。キャラクターの魅力についてこの観点からしゃべりたいです。この分類は便宜的趣味的なもので、あいまいさがおおくふくまれ、気分や文脈、発言時期によってその意味するところが変わっている恐れがあります。

 

 キャラクターの魅力というものをこの分類に分けようとすると、それは不可能といわねばならない。なぜなら、見た目のカッコよさは「刹那的」であり、言動のカッコよさや人格の高潔さ等の魅力は前後の文脈、時間的な幅と因果的つながりを要求するので必然的に「物語的」であり、というよりもキャラクター(人格)がそも「物語的」である。そして読者(ひと)がキャラ(ひと)に魅力を感じるということは、すでにしてそれだけで「根源的」な事象であろう。キャラクターの魅力というものをどれかに分類するというよりも、この三つの要素がからまって構成されていると考えよう。そうすることで、あるキャラクターに対してそのような分析を加えることで、わたしがそのキャラクターに感じているものを少し理解できるようになるかもしれない。

 

 

実際の語りはまたにしよう。