Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

日記たりうるのか

 どうも、「わたしが欲しかったものは、すでに遠い昔に失われているんだ。あるいは、もともと存在しなかったか。」

門倉亜人です。

 

 徒然なる日記です。

 

 日記を書きます。

 

 年末。大きなイベントごとや変化を経験すると深い断絶によって記憶が失われませんか?覚えていません。人理焼却式、魔神王と戦ったこと以外何も。

 あぁ、初詣に行きましたね。旧友とふたりで。・・・それは年末じゃないか。持てるすべての防寒具を、切り札のすべてを投入してもなお寒かったです。並びながらガチャを回しました。武蔵でねぇ~よ、が初詣の思い出。(翌日に出ました。)

 

 年始気分が抜け始めた先週あたりは参考書を読んで画力を爆発的に上昇させるなどして過ごしました。この年になってようやく、ようやく物事を計画的に進めるコツがわかりました。

 

 計画性という概念には不可欠な相棒が居たのである。すなわち冗長性と突発性そして柔軟性だ。決まり切った毎日を過ごすなど冗談ではないと感じるわたしのような人間にとって、物事を計画的に進めるというのはむしろ狂気の沙汰としか思えない。そんなわたしがたどり着いた当たり前の計画の立て方と進め方がこちら。

 「完成予想の二倍以上の時間を確保する」

 「一日のうち予め固定する時間は三時間ぐらい」

 「急にやりたくなったことはすぐ初めてすぐ切り上げ」

 「成すべきことの連続性を切らせない。モチベーションとスキルの維持のために」

 「予定の変更調整は適宜行う」

多分、わたし以外の成人、社会適合者たちは平気でやっていることなのだろうと思う。

 「継続的な長時間計画を遂行する」

 「その日の気分に従う」

両方やらなくっちゃぁならないところが「気分屋」の辛いところだな、という感じ。

まとめるとすごく普通。ある程度予定は立てるがアクシデントにも柔軟に対応できるよう余裕をあらかじめ織り込む、という。あぁ、普通だなぁ。

 

 しかし考えてみると、辛いところとして挙げた二点、人間存在全般の困難でもあると思いませんか。言い換えると、

「時間的連続体として生活する。(=未来と他人たちの中で生きる)」

「いま、ここにある存在者としての生を実感する。(=わたしが在る)」

ということでしょう。この二つは同時には両立できない。とても普通の結語にわたしたちはまた出会うことでしょう。すなわち、「バランス」

 つまらない。本当に普通でつまらない。でもそういうことでなんか日々をハッピーな気分にすることができるようなので、従いましょう。

 

 計画性とは、未来の自分という他人に対するマナー、である。マナーは法ではない。他人に配慮したり、我を通したり、するものである。どのぐらいが落としどころか、それが問題だ。

 

 

 あぁ、何とも小粒でつまらない人間になり果てたことよ。せめて誇りだけは、自身に対する誇りだけは大きく保ちたいものだ。

 

 

・・・これは日記なのだろうか。ともあれ言葉を重ねると更に言葉が湧き出てくる、という体験にはなった。これはこれでオカルトじみている気がしなくもない。体裁を整える、という作業はしていないが。何もない日々を生きると、日記にもイベントがなくなる、ということ。

 

 さて、徒然なるままに書き連ねてみました。

 (わたしの)好意の分類とそのラベリング(名付け)という話題もあった気がするが、今回は投げ捨て。

 

 

ではまた、煉獄の片隅で。