Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

意識、心の比喩、他。

 今朝、出勤中に思いついた比喩をここに披露する。

 

 心、あるいはある種の意識は、映画に似ている。脳というスクリーンに映し出される幻影。伊藤計劃はエッセイ「人という物語」において「意識は物語るためにある。」と言った。映画は物語を現出させるためにある、とも言えるだろう。わたしがこの比喩で強調したいことは、心は永続性や実体をもたない、という点だ。スクリーンは物理的実体であり、それが脳に対応する。一方、映画はスクリーンに映る連続した絵だ。物語はそこに実在するがしかし、物語られた世界は「そこ」にはない。心とは事物ではなく、現象である。そしてそれはたやすく消し去ることができる。映画の世界は「ここ」にはない。だが、物語は「ここ」で物語られている。脳はここにある。心はここで生成している。彼の世界は「ここ」にはない。だが、それはたしかに存在する、実在する。その世界は紛れもない本物の世界だ。心とは物語られる虚構だ。だが、それは実在するだろう。映画と同じ水準において。心がある場所と物語のある場所は同じだ。

 

 という物語。心とは物語だ。自らを物語る物語。意識は嘘をつく。意識は「いま、ここ」という認識を、解釈を、クオリアを、幻想を、現実を、紡ぎ出す。その行為そのものが心だ。それが意識だ、それが脳だ。

 それが「わたし」だ。

 

 比喩がメタ構造を備え始めた。「心とは物語だ」という物語を物語る、脳機能、それが、意識、すなわち心・・・?

 

 伊藤計劃は映画をたくさん観たそうだ。意識とは映画であるという比喩は気にいってもらえまいか?

 

 

 

 

 別の話題。御冷ミァハの話。ミァハのカリスマの構造の話。

 

 御冷ミァハの表情はわたしに何かを思わせる。それがなんだったのか、今宵思い至った。いや、そういう解釈もあると思いついた。アルカイックスマイルだ。彼女の微笑みは、慈愛に満ちているようでいて、だが無邪気そうでもあり、あどけなく、それでいてどこかタナトスを、死の衝動をも感じさせ、いや、それよりも深く、ただ虚無を、ただ深い闇を、光を感じずにはいられない。仏像の表情は、いわゆるアルカイックスマイルは、笑っているようで、何も見ていないような、不思議な表情だ。ミァハの相貌(かお)はそれを思い起こさせる。

 新版ハーモニーには伊藤計劃インタビューが収録されている。そこで伊藤計劃はこう述べている。

「僕はイデオローグを書くのが大好きなんですよ。映画「ファイト・クラブ」でいうとタイラー・ダーデンのような(笑)。タイラーが理屈を喋っていてもあんまりおもしろくないので、じゃあ女の子にしてみたらどうだろうか、という発想でできたキャラなんですよ、ミァハは。」 

「僕はまず、理屈が先にある感じです。理屈にそってキャラクターを作り、そのキャラが喋るロジックを魅力的に見せるにはどうしたらいいのかっていうことで話を考えていきます。いかにロジックを話に落とし込むかっていう緩衝材としてキャラクターは存在するわけです。」

「僕が考えるロジックというのは、(中略)切実なロジックです。切実なロジックを、その切実さを残したままキャラクターに喋らせると、なんとかエモーショナルになってもらえるんじゃないだろうか。」

 あえて大胆な表現を許してもらえるならば、御冷ミァハはイデオローグ(イデオロギーの提唱者)でありながらその実、ロジック、つまりイデオロギ―が受肉した存在であったのだ。イデオローグが実はイデオロギーそのものの化身であったという因果を逆転させた在り方で生まれたという興味深い事象がここにある。その点も興味深いがここでより強調したいのは、ミァハはロジックそのもの、つまり概念であり、空虚であったということだ。ロジックであるという在り方が、そのままミァハのアイデンティティーへと昇華されている。切実さという以外のエモーショナルを持たない、というキャラクター性。

 その空虚に、その虚空に、その間隙に、タナトスが、いや、慈愛が、宿る。

 アルカイックスマイルから我々が多くのものを読みだすように、ミァハという虚無から、われわれは望むすべてを、彼女に望むすべてを読みだすのだ。

 あどけなさを、危うさを、少女性を、利発さを、無垢を、女神を、理想を、救世主(メシア)を、御冷ミァハに見出す。虚無ゆえに雄弁。死的であるが故、性的。

 これを奇蹟と呼ぶのは大げさだろうか。それともここまでが、伊藤計劃の、計劃の一部なのだろうか。

 

 ちなみに新版ハーモニーの解説においては、先と同じ箇所をあげて、それが霧恵トァンを造り出したのだ、と述べている。

 もはや蛇足でしかないが、伊藤計劃はきっとトァンのような人なのだろう。だが、きっとトァンが過半であるにしても、間違いなくミァハみたいな人でもあっただろう。たんなるわたしの願望でしかないが、トァン7に対してミァハ3ぐらいではないかと思っている(本当はもっとミァハが多いといいなとも思っている)。伊藤計劃はきっとトァンとミァハでできている。(そしてキアンとで世界を創る。)

 

 

 

 

 

 

 

 

独り言後記。リーダビリティという言葉を私はもっと噛みしめなければいけない。おそらくわたしの文章は読みにくい。あと、このブログはミァハと伊藤計劃ばっかりだな。