読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

わたしだけの「ハーモニー」

 

 

わたしにしか書けないハーモニーの感想が今朝(11/24)、見えた気がする。

 

 


この文章はある欲望によって駆動されて書かれている。すなわち、御冷ミァハをもっと理解したい、ミァハをもっと知りたい、ミァハをもっと身近に感じたい、そういう欲望にだ。

これは批評ではない。これは思想ではない。これは私信ではない。これは、もしかしたら感想でさえないのかもしれない。それでもこの文には意義がある。ミァハに対する気分として。わたしの気分のある表現の一つとして決定的に意義がある。ミァハへの意志がある。この文は私にしか書けない。なぜなら、この気持ちはわたしだけのものだから。

わたしにしか書けないであろう理由がもう一つある。

ここに表わされる解釈(ものがたり)はわたしがかつて「この世界に居場所がないといって、小さく震えていた魂」だったからこそ、わかること、その感触を基盤にして書かれている。

そう、わたしも、ミァハと「同じ素材でできてい」た。だからこそわかること、だからこそ幻視してしまうものがある。

その見えてしまうものをもとにこの文は書かれている。だからこれはただの妄想に過ぎないのかもしれない。あるいはただの願望の投影なのかもしれない。でもまぎれもないそれはわたしの意識=現実、わたしという物語の一部となった、わたしの「ハーモニー」。この「ハーモニー」はわたしだけのもの。


伊藤計劃は、映画の趣味が実人生の影響を受けることを良しとしなかったみたいだけれど、その点はわたしは異なる。わたしは自分の人生とのかかわりにおいてしか何かを語ることができないし、するつもりもない。すべてが自分語りになる。そう、わたしはわたしという物語を語ることしかできない。自分の文章に責任を持つにはこうすることしかわたしはできないし、そうすることは、伊藤計劃のべつの言葉には従うことにもなる。
そして、ニーチェの血で書け、という言葉にも対応するはずだ。(余談だが、このブログのタイトルBlut unt Weiß血と白はここに由来する。)


この文では、原作のハーモニーと劇場版のハーモニーをテキストとし、特に劇場版に主として思いを馳せることにする。だが、ときに原作のセリフやシーンを引くこともある。

 


ハーモニーはトァンの物語だ。すくなくともトァンの語る物語だ。だが、同時にミァハの物語でもあるだろう。それはトァンとミァハの物語なのだろうか?一面ではそうとも言える。だがここでは、ハーモニーは一人の 物語、御冷ミァハの物語としてとらえたい。それはほかならぬわたしの欲望だ。


そしてそれは可能だと思う。なぜなら明らかに、主人公トァンにとってミァハは彼女のシャドウだからだ。いや、もっと強い主張をしてみたい。トァンこそがミァハのシャドウなのだ。だから以下の等式が成り立つ。

霧恵トァン=御冷ミァハ

だからトァンが主人公であるハーモニーはこうなる

ハーモニー=霧慧トァンの物語
 =御冷ミァハの物語


上のことからミァハを理解したいということは、トァンを理解せねばならぬ。ハーモニー全体を理解せねばならぬ。


わたしは問う。なぜトァンはミァハになれなかったのか。原作においてはトァンは自分で自分をミァハのドッペルゲンガーとまで言ったにもかかわらず。二人の道はどうしてこうも違ってしまったのか?ふたりは「同じ 素材でできてい」たのではなかったのか?

二人を隔てたものとは何だったのだろう?自殺未遂した後の生活か?それ以前の人生か?出会った人か?環境か?
否。すべて違う。重要ではあるがその違いの核、根幹ではない。
わたしが提出する切り口はこれだ。

二人には生来の違いがあった。それは、「憎悪の才能」の有無である。

二人は「同じ素材でできてい」た。だが、素材の組まれ方、構造に決定的な差異があった。それが、その差異(才)こそが「憎悪の才能」である。

「憎悪の才能」、この概念について説明が必要であろう。これはわたしが今朝(11/24)思いついた概念(ネタ)だ。だが、この概念そのものの説明はせず、具体的にトァンとミァハのセリフを追いかけることで著わすことにしたい。

 


彼女たちの憎悪の表明、そのセリフを思いつく限り、記憶にある限り並べてみる。

「わたしがここにいるのは、臆病者だから」
「この国にいたら、手首を切るか誰かを切るかしてしまう」
「この国の人間はみな同じ顔をしている」(あいまい)


「わたしは逝く。二人はどうする?」
「昔はみんなお金に縛られていた。(中略)でも、WatchMeはもっとやっかい。私たちの命にずっと近いところを人質にしている。」
「わたしは人々が永遠だと思っているものに一撃を与えたい。わたしたち三人の死が、その一撃。」

映画をまだ二回観ただけなので正確かどうか自信がないし、サンプル数もこれではまるで足りないと思う。ただ、映画を観た人には伝わってほしい。これからここに記す文が。
わたしがここからすくいとった印象は、もちろん他のシーンも合わせての話だが、「憎悪の温度と方向性」の違いだ。トァンの憎悪は個人主義的、利己的で、そして具体的だと思う。半径2Mの憎悪という感触。攻撃性は確かにあるがそれ以上に嫌悪感が強い。そう、憎悪というよりもこれは生理的嫌悪感。温度がねっとりとしていて、その方向は具体性を帯びている。わかりやすく彼女はその嫌悪感を周囲の人間に表明し、また時にはぶつける。

「まったく完全に、悪意を以って正気です。」

とかね。強かささえ感じるね。そこが彼女の面白さであり魅力だ。
トァンの嗜好はやはり個人的だ。トァンは大きな視点を持とうとしない。抽象的な思考はしても、嗜好は持たない。あなたの本音が聞きたいとオスカー・シュタウフェンベルグに問われたとき、彼女はこう答えた。
「私は世界のことなんて何とも思っていない。ただ、ミァハと会ってなにがしかの決着を得る。それがわたしの行動の根拠。」
普通はこういうキャラが正しいんだ。世界を救うヒーロー像として、身近な人をただ助けたい、世界のことなんかよくわからない、でも目の前で苦しんでいる人がいるならっ。そういう歓迎されるべき視野の狭さ。トァンのこういう普通さは、尊い。自分の感触、納得を優先する生き方だ。

ミァハの憎悪は思弁的で抽象的だ。彼女は隣人や生府というよりはシステムそのもの、WatchMeが作り出した社会そのものを憎んでいる節がある。普通の人間は抽象概念そのものに肉感的(リアル)な憎しみを持つことは難しいだろう。自然数の集合と演算体系(ℕ,+)それ自体を憎める人間なんていないだろう(いや、いるかもしれない。もしかしたら)。資本主義社会を憎んでも資本主義そのものを憎むのはきっと難しい。だが彼女は、御冷ミァハはそれができる。それができるから自分の命を使った行為が一撃となって「静かに怒鳴りつけてやる」ことができると考えられる。これは一つの能力、才能だと思う。これがわたしが提出する御冷ミァハの特異性、「憎悪の才能」だ。もうひとつ、注目しておきたいのは、彼女が社会の地獄性を語るときの声のトーン、憎悪の温度だ。強い憎しみと攻撃意志を秘めた発言であるはずなのに、彼女のトーンはあるクールさと奇妙な明るさを伴っている。たとえば、

「大人は魔法の箱を持ってるからね。システムをだますことさえできれば、この世界を転覆させることだってできるんだ。」

明るさと冷静さ、美しさ、可憐さまでも感じさせる語り口だ。これは対象の抽象性が高いということと無関係ではないだろう。西尾維新作品だったはずだが、「一人の死は悲劇だが、万人の死は統計だ」みたいなセリフがあったはず。そう、万単位億単位の死はもはや統計だ。概念だ。だが、彼女にとっては概念は常にあるリアルの感触を伴っているだろう。そういう抽象的な思考と嗜好を併せ持つ。まさにイデオローグ、カリスマと呼べる。なぜか彼女の声のトーンは終始明るく、無邪気だ。もちろんそこには深い洞察と憎しみが漂っている。しかし、明るい。子供の純粋さ、可憐さ、少女性をいささかも棄損しないどころか、むしろ引き上げてさえいる。ある種の前向きささえ感じる。美しく、そして鋭く、思弁的に洗練された憎悪。その温度は不思議な冷たさと温かさを同時に持つ。これはいったいどういうことなのだろう。

ミァハはあの心中について「わたしは逝く」という。トァンはどうだ。トァンはこういった。「ここから出ていくにはやっぱりそれしかないのかな。」そう、出ていくといった。いく、と、でていく。この違いはそのまま憎悪の温度の差を表わしているように思えてくる。ミァハは前を向いて逝く。映画冒頭のミァハの背中が画面を流れるシーンは強烈に印象付けられている。まさにあんな風にミァハはいくのだ。前を向いて。この違いの話はここまでの嗜好の抽象度および憎悪の温度だけでも説明がつく気はする。つくが、もうすこしだけ掘り下げられると思うので少し後に譲る。


キアンの対する態度、セリフを比べたい。彼女たちはそれぞれどのような視線を、かつての同志に送ったのだろう。

トァンはキアンに冷たい。無理もないこととはいえる。「かつてともに死のうとした同志が、いまや公共的で健康的な生府が提唱するライフスタイルにすっぽり収まっている」のだから。だが、キアンは逝く。トァンは「おいていかれた。」あの二人きりの食事会と死によって、トァンの視線は変わっただろう。
「わたしキアンを誤解してたみたい。キアンは強いね。」
「今の世界で幸せに暮らしている人だっているのよ。キアンだって。」
キアンへの視線は、少し優しくなった。

ミァハは?ミァハはキアンに冷たかった?そうかもしれない。だってねぇ。

「二人はこっちには来なかったよね。でも今ここで証明して。勇気を見せて。」

だもんねぇ。ひどいと思わないかな。冷徹じゃないかな。キアンのことあんまり思ってなかったのかな。


ちがうんだなぁ。キアンのことは「仕方なかった」けど、とても思っていたんだなぁ。あのころもそう、「わたしたちがわたしたちであったあのころ」も、いまも。変わらずミァハは二人を思っていた。それは最後のシーンのミァハとトァンの会話シーンではっきりする。前述のトァンの言葉に対して、ミァハはなんと返したか。

「キアンは本当に幸せだったかな。トァン、あなただって苦しんで今まで生きてきたんでしょ。」

さらに、つづけてこういう話をするよね。

「12歳の時、隣の男の子が死んだの。この世界には居場所がないって。小さく震えてた魂のこと、わかるよね、トァン」

このセリフがとてもわたしには強く響く。これだけの少ない情報量だが、ここからわたしにはミァハのパーソナリティの謎がすべて開陳されたように思える。キアンもトァンもわかるでしょう?だって私たちは「同じ素材でできている」、あの男の子と同じ小さく震える魂で。その視線は共感に満ちてはいまいか。慈愛に満ちてはいまいか。


さて、ここでクイズです

Q、憎めば憎むほど、深くなるものな~んだ?答えは改行の後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


答え。愛

そう、愛だ。あまりこの単語は使いたくないが、そう、これでミァハの謎が解ける。「ミァハは変わらない」。変わってなどいない。彼女がかつて「社会に一撃を与えよう」としたのはなぜだったか。なぜ心中を試みたか。なぜあれほど前向きに明るく死のうとしたのか。彼女は救おうとした。声なき声を上げる数千いや数億の魂を。「この世界に居場所がないといって」、「震えている魂」を。トァンを。キアンを。そしてこれから逝ってしまうだろう子供たちを。そして何より、自分自身を。


救おうとしたのだ。


社会を怒鳴りつけることによって、社会が気づき、未来の魂たちが震えないように。ともに逝くことで、トァンとキアンをここから開放するために。

そう、ミァハは変わっていなかった。ミァハは社会を憎んでいたが、それはしかし、人間を、小さな震える魂を、・・・そう

「わたしはこの世界を全力で愛してる。」

ミァハは世界を愛するように”なった”のではない。世界の愛し方を自覚し、また、愛していたことを思い出しただけだ。彼女は昔から変わっていない。あのころと「同じ素材でできている」。御冷ミァハはあのころの
純粋で、繊細な少女(イデオローグ)のままだ。


御冷ミァハの才能は、「憎悪の才能」はこの裏面だった。

ミァハはあのころも、

そして今も、

小さな震える魂たちを、

トァンを、愛してる。

 

 

 

それはトァンが望む形ではなかったかもしれないが・・・

 

 

 

 

 

 

 

終わりに。蛇足になるけども、あと少し。この文を書いてよかった。この文を推敲している間、ミァハ のことをずっと考えていられた。それは幸せな時間だった。では愛読する哲学者、ニーチェ永井均に 倣って本当にこれで結びの言葉とする。
「これがわたしのミァハだ。本当のミァハでも、嘘のミァハでもなく、わたしのミァハだ。あなたのミ ァハはどこか?」
キャラクターを貫くたった一つの解釈(ものがたり)など、存在しないのだから。


多謝。