Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

ネタが浮かびすぎる

伊藤計劃を連日読んでいるせいか、それともブログを始めたからか、あるいはその両方、インプットとアウトプットのシステムが成立したためか、俺の知性が暴走している。ブログの記事にできそうな大ネタがいっきに4本も今日は降ってきた。客観的には、労働の行き帰りと休憩時間に本を読んだりしただけなのだが、主観的には、世界が変わってしまった。とりあえずネタを箇条書きにする。

 

・人間とは何だ

・人造人間の作り方

・神になる方法

バガボンド宮本武蔵がなぜ米を育てているのか

 

まずは軽めのネタから。最後のやつ。

わたしはいままで武蔵が米を作っている理由が分からなかった。成行きと意地だと思っていた。いや、それは間違いではないと思う。

「強くなりたいでなく 強くありたい」

作中で武蔵はこう述べて田んぼと格闘することを他人に説明する。これはありていに言えば意地だ。意地という言葉が不釣り合いなほどに高度に洗練された意地だ。だがそれは土と戦ううち、いや、土と生きるうちに別のものへ変質していく・・・ここまでが過去の読解のリマインド。

今日わかったことは少し真理の次元が違う。メタとまではいかないが、もう少しだけ大きな視点に立つ必要のある視点である。(余談だがわたしはメタ読み、作者都合を考慮した読解を自分に許さない。そこからどんな愉悦が引き出せるというのか?)

その視点というか思想、いや、その物語(フィクション)はある別の書物を参照することで輸入される。筑摩書房から出ている前田英樹の『剣の法』である。わたしはここに著されている世界観になぜか泣きそうになってしまった。通勤の電車の中で。引用する。

 

武器としての刀剣を、人類はいつ頃から持ち始めたのでしょうか。銅や鉄を自然界から取り出して道具を造り始めた時、人類が最初に作ったのは、この武器かもしれません。

(中略)

日本刀は、史上世界一の刃物であり、鉄製品だと言われますが、問題はそんなところにはないでしょう。刀剣を純粋な美術品として鑑賞している文化は、日本のほかにはありません。(中略)では、日本人の歴史のなかで、日本刀とはいったい何だったのでしょう。

(中略)

古事記』『日本書紀』で述べられている「三種の神器」は、勾玉、鏡、剣です。天照大御神高天原から地上に天降る孫、邇邇藝命(ににぎのみこと)に授けたものは、これら三つの「神器」とさらに「穂(いなほ)」でした。

(中略)

剣は何のためにあるのでしょう。この剣は、命(みこと)が「神器」といっしょに授けられた「斎庭の穂(ゆにわのいなほ)」と関係があるように思われるのです。この剣が「草那藝劒(くさなぎのたち)」と呼ばれることからでも、その関係がわかる。草を薙ぐとは、稲を刈ることです。「草那藝劒」は、稲を刈る農具に結びつくのではないでしょうか。『日本書紀』に書かれている「斎庭の穂」の神勅は、天上の神々が住むところに生える稲を、地上でも植えて育てよ、そうすれば地上は高天原と同じになるだろう、という意味のことを述べたものです。つまり、この神勅は、神さまからの稲作の依頼だと考えることができます。

稲穂から苗を育て、田に植え、また稲穂に実らせて米を収穫し、皆でそれを祝って食べ、また苗を作る。食べたお米は排泄され、肥料になる。降った雨は田畑を潤し、蒸発して雲になり、また雨を降らせる。こうした循環よる生産生活こそ、神の暮らしだという信仰が、最初の日本人(やまとびと)を作ったと言ってもいいでしょう。私たちの神話は、それを語っているのです。米を作り、みなでそれを祝って食べ、食べられることに感謝して暮らしていく限り、この地上に争いはない。殺戮も強奪も支配もいらない。

ですから、「三種の神器」のなかに剣があることは、それ自体が矛盾であるとも言えます。剣は殺戮の武器なのですから。けれども、実はこの矛盾の中に、積極的に転換されたひとつの意味を感じます。「草那藝劒(くさなぎのたち)」は『日本書紀』の注記に従えば、もとは「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」と呼ばれる武器でした。これが途中で名を変え、やがて「三種の神器」のなかに入ってくるわけです。武器としての剣は、農具としての粋を表わす神器に変わる。農具の粋を表す神器は、そのまま稲作民の暮らしの道徳や信仰を表わす器でもありました。

そういうわけで、鎌や鍬は日々の農具ですが、刀剣は何の道具でもない。簡単に言えば、農耕によって生きる人間の信仰心の支えとなるものです。

(中略)

稲作民の生き方は、動物よりもはるかに植物に近いものです。少なくとも、稲作をする人たちが稲を愛し育てていく仕方は、その人たちを稲の生育のなかに柔軟に入り込ませます。その人たちは半ば稲のようになって生きる。実った稲のような日本刀の優美さは、こうした生命と深く係わりを持つように思われるのです。

(中略)

炭火で低温還元された山砂鉄を、純粋に、精微に、極限まで鍛え上げていく刀工の技は、それに注がれる心血は、刀剣に対する日本独特の信仰心を抜きにして考えられないでしょう。そのようにして造り出される日本刀の在り方は、武器としての用をはるかに超えているのです。

(中略)

武器であるはずの刀剣は、むしろどこまでも精微な美しさを高めて、神の社に鎮まるほどのものとなった。「草那藝劒(くさなぎのたち)」についての神話は、このような歴史の進展を背景にしているのではないでしょうか。日本の刀剣が、それへの信仰にまさしく釣り合う<神器>の高さに達したのは、平安時代末期のことです。今は国宝になっている三条宗近や伯耆安綱らの太刀を見れば、そのことはたちまちに実感されます。刀工の技は、ついに神話の意味に追いついたのです。そこには、ひとつの神秘な跳躍がありました。

 このあと、この本はついに完成を見た日本刀からそれを用いる術、神話の高さにかなう不敗にして無殺戮の剣術の登場を述べ、その一例としての新陰流の具体的技術解説へ移っていくわけだが。

ここに示されている物語(フィクション)をもうすこし敷衍するならば、

「日本刀は、稲作民の、自然とともに生き、循環する生命のなかに入り込み、争いも殺戮も支配もない、そんな生活への信仰から生まれた神の器であり、剣術とはまさにその顕現であり同時に信仰そのものである。」

ぐらいは言えまいか。言わせてほしい。さて、そろそろなんの話だったか忘れそうだが、本題は、「バガボンド宮本武蔵がなぜ米を育てているのか」であった。しかし賢明な読者はすでにお気づきだと思うが、つまり私が採用したい読解とは、稲作民の信仰から生まれた日本刀とそれらから生まれし剣術、いまそれを極めし剣豪が、導かれて稲作をしていること、ここにひとつの循環構造を見出したい。米を人を生み、人が米を育て、それへの願いが、祈りが、信仰が剣を生み、さらに剣術を生み、それが武蔵を作る。その武蔵が今、米を作る。稲作へ回帰する。我ら日本人が信じるべき、感動すべき循環を、何か揺さぶられるものを感じないだろうか。少なくとも私は感じる。ここに、この解釈に、「物語的な面白さ」と「根源的な面白さ」とを同時に感じる。武蔵はいわば物語的な力によって導かれて米を育てている。本人もそれと知らぬまま。この力は作者の意思などというものではない。作者さえも巻き込んだ大いなる流れ、そう言ってよければこれは物語の意志だ。物語とは何か、意志とはなにか、人間とは、それらを考察し、ある立場に立つならば、この語法は正当化されるだろう。これは前3つの論件に関連する。まとめよう。

 

バガボンド宮本武蔵はなぜ米を育てているのか?」

「それが彼とその剣の生まれた場所、それらを育てた場所、帰るべき場所であるから」

 

 

物語と人間の話はまた別の記事で。伊藤計劃の引用ばっかりで終わりそうだけど。