創作する、の2.5?
以下の文の最終更新は2018年2月1日、とある。このシリーズのみ、更新の意志がある。
あけましておめでとうございます(おっそ、日付観て?)門倉亜人です。
何がめでたいのかわからん、といっていた昔がうそのようですが、正直わかりたくはなかったかもしれません。年が明けてもまだ生きている、めでたい、という意味なのですね。今年は何とか健康で文化的な最低限度の生活ができるようになることを目指して生きていきます。(死んでいきます?)
ということで、以下は一年ぐらい前に書いて投げ出していたものの続きでございます。話を忘れたずぇあ!、という方はリンクから過去作をぜひどうぞ。
はい、というわけで「45時間」第2.5話始めます。
───「お誕生日おめでとう。」この言葉が俺の中で意味消失したのはいつ頃だったか。ガキの頃、幼少のみぎり、物心ついたころ、
・・・言い方はどうでもいい。とにかく記憶にはいつごろからかなんて情報は残っていない。なんとなく、はるか昔は「なんかプレゼントとケーキがもらえる素敵な日」で、いつのまにやら「しらじらしい無意味なイベント」に変わった。おそらく小学生ぐらいのことだろう。きっかけとか、そういうデジタルな事件は覚えていない。本当にいつの間にか、めでたい、とか、ありがとう、とかの言葉にまったく実感が伴わなくなった。
おはようは、あさ早くねぇし、おやすみ、はちっとも心休まらねぇ。
グッドモーニングもボンジョルノもなにもよい一日でも朝でもねぇ。
おめでとう、とくに、誕生日おめでとう、が何がめでたいのかわからなくなった。生まれた日付から何回目、何年目、に達した。だからなんだ?なにがめでたい?ただ寿命が一年縮んだだけのこと、いや、一年てのは人間が区切ったデジタルで、年はいつも取り続けている、ずっと老化とか変化とか成長はし続けている。それ自体は、それそのものは、何もめでたくはないどころか忌むべきことですらある、よなぁ?
ただ純粋に不思議だと思う気持ちもあったろう。周りの人間の習慣が理解不能なことに恐怖も覚えたろう。それになにより、意味不明な行為と言葉を紡ぐことに俺は、当時の俺は、まったく納得できなかった。
めんどくせぇガキだ。俺もそう思う。だが納得しなけりゃぁ俺様は一歩も進めねぇ、あけましておめでとうが言いたくなかったあのころから、今に至るまで、そこだけは変わらねぇ。
「納得はすべてに優先するぜ」ってな。
ただの思春期の自意識過剰だ。そうだ、それを認めよう。俺は自分のそれを認める。いわゆる中二病の症状の一形態にくくられることを、俺は認める。だが、それを理解したところで、認めたところで、なにもめでたくはならねぇんだ。
ならねぇんだよ。
───ちがう、ちがうんだ、ちがう。まるで愚痴みてぇな話し方になっちまったが、俺が言いたかったのは、いまいったことじゃねぇ、まったく逆だ。俺様はいま、実感をもって、心から、あけましておめでとうが言える、誕生日おめでとうが言える。それどころか「生きててよかった。」とすら言える。そういう話をするはずだった。
死と暴力がいつでもここにあるから、それが言えるようになった。
サンキューゾンビども。それが俺の言いたいことだ。
生きててよかった、今日もゾンビどもを斬り殺せるぜ。神よ、感謝します。
地獄にこそ幸あり、と!
俺の名は藤堂至
さぁて、今日もゾンビ狩り稼業、始めるぜ!レッツロック!
───つづく。
はい、冒頭のあいさつがね、実はフリをかねていたんですけど、まぁいつもやってるやつですね。第3話から書こうと思ったんですけど、どんな感じにするかも一応考えたんですけど、時間かかりそうだったのでまず思いついた話をサクッと一時間で書いてみました。(推敲にはもうちょっとかかってます。)東道至のキャラを思い出すためにもね。え、キャラ違う?そんなことないです彼はもともとこういうキャラだったんですよ。
ではまたそのうち。
追伸。(2018年7月13日)
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