Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

刃牙の感想とか日記、とか

 どうも、好きな水着サーヴァントは源頼光、門倉亜人です。

 

 人間は自分のことほどよくわかっていない、それはなぜか、そのことに頼光様は気づかせてくれました。人間の判断や意思決定は意識よりも深いところ、ほとんど無意識下で行われていると聞きます。とりわけ好悪、快不快の感情的反応は考えて行うものではない、ということは周知のことかと思います。

 

 好きなものや嫌いなものを具体的に述べることがわたしは苦手です。なぜか。理解やその著述は感情で行うものではないからだと、考えます。わたしはわたしの好きなものが良くわかりません。嫌いなものもよくわかりません。好きな食べ物を聞かれると、とりあえず肉と答えますが、そのときわたしには強い好意を自分の中に感じることができません。もちろん実物のステーキを目の前にすれば話は違いますが。

 

 なにを言いたいのかというと、頼光様のどこが好きなのか、よくわからない、わからなかった、ということが言いたい。そしてしばらく時間をおいて、(具体的には一年と二か月ほど)実際にバーサーカー頼光様を引いて、使って、育てて、他人の意見を目にすることで、すこし理解できてきた、ということです。

 

 刃牙の話をしたい。はずだった、ので、頼光様のどこが好きかについては早めに切り上げます。

 ズバリ!大前提としてそのクッソドスケベなボディ!は当然として、それを大前提の魅力として抑えたうえでの、あの狂気じみたキャラクターが好きです。このわたしの趣味を、わたしはロリコンの発露だと見ています。狂気の根源は純粋さと無垢さ、そして幼児性によるもの。それがわたしのロリコンを刺激するようだ。それが同時にギャップ萌えも発症させている。罪なキャラクターを作ってしまいましたね・・・タイプムーンは。だってみてくださいよ、あの笑顔、泣き顔、まさに少女そのもの、少女性の具現ではありませんか!

 

 

 

 違うんです。刃牙の話をしたかった。今週の刃牙を読んで、わたしは悟った。「嫌い」という感情にもいろいろある、ということを。今週の刃牙にはわたしの「好き」と「嫌い」がたっぷり詰まっていたということを語りたい。頼光様はその話の前振りです、そのつもりでした。題材が悪かった。これだけで小一時間いける。

 

 今週の刃牙はとても面白かった。もちろんいつも通りの刃牙だったのですが、つまり、前々から続いている武蔵VS花山薫、拳と剣、無垢VS極の闘い、そのつづき、おそらく今週で決着だろうというところです。

 いつも通り猛烈に面白かった。刃牙の面白さというのはもちろん、荒唐無稽でありながら、痛みや破壊音などが聞こえてきそうな、伝わってきそうな、リアリティ、絵面の強さ、我々の世界との距離感の近さ(この場合の近さというのはDBとかハンターハンターなどと比べてぐらいの意味の近さ)、で繰り広げられるアクション、戦闘行為であるのは当然なのであります。ありそうでなかった、あるいはだれもが観たかったが見られない、異種格闘技戦。それこそ刃牙の真骨頂でしょう。

 

 ただ、今週の刃牙を読んで、わたしは様々な感情を味わった、それが面白さでもあり、自分自身への「謎」でもあったので、その話をしたい。

 

 まず、話の大前提として、確認したいこと。

 花山薫の強さとは。ありていに言えば、持って生まれた「才能」のことだ。体の大きさ、丈夫さ、筋肉骨格の強さ、威力、性能、つまり生物種として、個体として、猛烈に、規格外に高スペック。それだけ。ただただ、それだけだ。そしてそれは十分以上に、「強い」。

 花山薫の魅力とは。その通常の意味と全く逆の意味での「ストイックさ」。花山薫は己に決して「努力を許さない」。間違えるな、怠惰を許さないのではない、「努力を許さない」のだ。彼は「これ以上」を望まない。さらなる高みを望まない。より強く、より速く、を目指さない。己という強者の「更なる強さ」を許さない。それは傲慢ではなく、もちろん怠惰でもなく、当然謙虚でもない。それは自然な矜持であり、虚栄も見栄も一切含まない、無垢なる思想。思想と呼ぶことさえためらわる無垢。

 花山薫に鍛錬はない。花山薫に防御はない。花山薫に回避はない。

 花山薫に、一切の技は、ない。

 宮本武蔵をして、仏のような目と言わしめるほどの無垢のまま、真正面から全力で殴りぬける。それだけ。

 

 確認したいこと続き。武蔵について。

 宮本武蔵の強さとは。剣。もうこれ以上言葉を重ねる意味が、わたしにはない。

 宮本武蔵の魅力とは。あえて花山と対比するために言葉を選ぶならば、「強欲さ」。更なる剣の極みを求め、名声を求め、戦いを求め、好敵手を求める。金が欲しい名誉が欲しい、遊び相手が欲しい。

 そしてそれらすべての俗物を飲みこんだままなお色褪せぬ、くすむことなき剣士としての矜持。

 悟りを得られるほどの高みへ至りながら、俗物であり続ける、あり続けることができる胆力と能力。

 油断をし、手心を加え、無防備に敵の一撃を無様に食らってなお全く落ちぬ威容。

 武蔵の登場まで、意外にも多分刃牙にはこのタイプのキャラはほとんどいなかった。(猪狩ぐらいかな?)

 

 最後に確認したいこと。わたしは花山薫が嫌いだ。嫌いだ。大っ嫌いだ!

 

 ようやく本題に入れる。簡単に今週の刃牙の展開を追いながら、わたしがいかなる感情や発見を得たのかを語っていく。

 

 ここまでで武蔵、花山両名はクリティカルなダメージをもらっている。次に二人が交錯した時が決着の時であろうことは想像に難くない。

 花山の無垢語りが冒頭数ページにわたって挟まる。正直、この「矜持」に似たものをどう日本語にすべきかわたしにはわからない。矜持では語気が強すぎる。あれはもっと自然なもの。執着ではなく、拘りでなく、自然なありかた・・・これをなんと呼べば・・・?傲慢と呼ぶことはできない。矜持と呼ぶこともためらわれる、だが、謙虚でなどありえない。

 「ライオンが鍛えるか・・・?」

 意味が分からない。わたしの理性が、わたしの大脳が理解を拒絶する。それほどの体躯を、才能を持ちながら、なぜ高みを目指さない!?なぜ鍛えない!?全く合理的でない、全く同意できない。

 だが、わかる。頭脳でなく感情でわかる。何を言っているのかわからないが、わかる。ここまで刃牙を読んでいるものが、これが分からないはずはない。この美しさが分からないはずはない。この「漢気」がわからぬはずはないのだ。

 

 それでも、わたしは花山薫を認めない。わたしは花山薫が嫌いだ。許せぬ、その在り方、生き方、生まれ、強さ、スタイル、すべてが許せぬ。剣を趣味とする(剣に生き剣に死ぬことを望む)ものとして、けして花山は認められぬ。

 

 そして花山が再び武蔵に拳を叩き込もうと振りかぶる。

「──っと」

 さくりと、武蔵の刀が、振りかぶられギチギチとした音が聞こえてきそうな花山の左わき腹に滑り込む。あまりにもあっけなく、そして当然のように、致命傷であろう。武蔵いわく、「強さ比べにはもう付き合えん」。遊びは終わった、終わらせたのだ。

 

 これだ。この自然な殺意。理性的で合理的でありながら野性的な殺意。剣の高みにあるもの、の佇まいを感じる。ナチュラルな殺意がわたしは好きだ。美しさすら感じる。

 

 飾り気も混じりけもない、純然にして清廉なる、殺意。この美しき殺意のことを、「剣」と呼ぶのだ。呼ぶべきなのだ。これこそが刀なのだ。詫びであり寂びであり、粋なのだ。わたしは俗物故、これらの言葉の意味が精確には判然としないが、思わずこういった単語を連ねたくなる。

 わたしは純粋さが好きなのだなと感じる、感じた。剣士が二人向かい合っている、それ以外の理由がない闘争、殺し合い、斬りあいが好きだ。これはなんなのだろう。この趣味に何と名を与えればよい。この感情にはかつてなんとラベルづけられていた。闘争本能か。いや、もっと、ちがう。もっと美しい言葉を、もとめる。

 

 花山薫の眼は、しかし澄み切っていた。

「ことここに及んでも、仏のような目をする。」

 美しき目をした少年の、巨岩のごとき拳が空を切る。

 顔に新しい刀傷が増える。

 ここにあるのは血と剣と純粋さだけだ。

 いくつもの致命傷を受けた少年の目の色が変わる。静かな表情のまま、白目をむく。

「よし、鬼の目だ」

 剣鬼は満足げに、鬼の形相で少年の眼球ごと顔を斬る。

 鬼が鬼を斬る。

 続くふたつめの拳も大きく空を切る。

 少年は鬼に背を向け、立ち尽くす。

 

 斬。

 

 今週は大体こんなかんじ。美しい人間の流す血は、やはり美しい。

 血が美しいハズなどないが、これは観念(フィクション)だ。血の匂いを、真剣に対峙するリアルな恐怖を、わたしは知っている。血は、臭い。刃物は、怖い。

 だが、やはりあえて言おう。この死合いは美しかった。

 ただ、戦う、ということの美しさ。血生臭さ、恐怖、痛み、それらをすべて包含したうえでなお、深い感動を覚える。バトル漫画の醍醐味というやつだ。

 この感動、興奮は名付けがたい。狩猟本能を満足させるものなのか、闘争本能を満足させるものなのか。いや、それらの用語には抵抗を覚える、粋ではないと感じる。これは、なんだ。この興奮、好意的感情の満足、感動は何と呼ぶものなのか。殺人衝動か。わからない、なんともわからない。ただただ面白かったとしか言葉が続かぬ。

 

 発見をした。ひとくちに否定的感情といってもそれには種類がある。自分自身、思いもよらないほどの多様さがあった。

 わたしは花山薫が嫌いだ。今日まで、それは彼がやくざだからだと思っていた。もちろん、彼のともすれば努力、鍛錬、ひいてはそれは技術、武術の否定である思想、感情に対する怒りでもあった。

 だが、今日わたしが悟ったところによればこれは「嫉妬」だ。強く生まれついたこと、持つ者として生まれたことに対する持たざる者の嫉妬。

 醜い。我ながら醜い。この発見はほんのちょっぴりだがわたしを落胆させた。正直、ここにこう記すことにも幾ばくかの羞恥を感じる。

 だが、同時に疑問もわいた。武蔵も「持つ者」であることは変わらないはず。武蔵はおそらく、持って生まれ更なる鍛錬によって更なる才知を得た。より強く嫉妬するべきではないのか、わたしは。いままでは剣を持っているから、剣が好きだから、その補正であろうと考えていた。

 しかしいくらわたしの中を探っても武蔵に対する毛ほどの嫉妬も見当たらない。補正込でもこれはいささかおかしい。この違いはどこから来るのか。

 

 今週の刃牙を読み終えた瞬間に悟ったのだが、嫉妬の内実がもう少し細かいということが分かった。

 わたしの花山薫への嫉妬は「持たざる者から持つ者への嫉妬」ではなく、

「待ち得ぬ者からそれを持つ者への嫉妬」である。

 まず前提として彼の持っているもの、体躯等の才能には価値があり、それをわたしも欲している。そうでなければ嫉妬は生まれぬ。だが、わたしがいかなる努力、鍛錬をもってしても、それは得られぬ。加えて、いかなる空想、想定をもってしてもそれは得られぬ。なぜならば、もしわたしが花山薫と同等以上の体躯を持ち、彼と同等の思想によって生きていたならば、それはもはや、わたしではない。そのように想定されたわたしをもはやわたしとは認められない。つまり原理的に彼の持つものをわたしは絶対に得られない、それを得たならば、わたしはわたしでなくなるゆえに。それをわたしとは認めない。花山薫のような見ぐまれた才能を持つわたしを認めない。わたしの心がそれを決して許さない。しかし彼には嫉妬を覚える。なんと面倒くさい機構よのぅ。我ながら卑しくかつ面倒くさい。

 一方で、わたしが武蔵のような力を手にすることはありうる(し、目指している)。

現実的な意味ではなく、原理的な意味においてではあるが。

 わたしの嫉妬は概ねこのような構造のようだ。「わたしが(原理的には)手にしうるものを持つ者」にはさほどまたは全く嫉妬を覚えないが、花山薫のような「いかなる想定をもってしても(それを得たとすればわたしはわたしでなくなるという意味で)原理的にけして得られないものを持つ者」には強く、理不尽な嫉妬を覚える、ようだ。

 

 花山薫にはこれからも敵意を抱いていくだろう。それはこれまで嫉妬の発露としての殺意であった。しかし今日からはそれに「憧憬と敬意の表現としての殺意」が混入されることになる。完全な変質ではなく混入であるところがまたなんとも面倒くさい。

  花山薫はこれからも嫌いだ。だが、もし来週の刃牙で彼が死んだなら、憧憬と敬意をもって、わたしの中の烈海王がいる場所にその名を列せられることになるだろう。

 あぁ、花山薫、死んでくれ、美しくな。

 

 

 刃牙の話はこれで終わりだが、すこし殺意の話をする。殺意にもいろいろあるということにも最近遅ればせながら気がついた。殺意とは「殺すという意志または感情」のことだ。普通の殺意とは憎悪、嫌悪の発展形としての殺意だろう。わたしも殺意とは憎悪のことだと長い間誤解していた。しかし、憎悪にもいろいろな形態がある。「存在そのものが許せない憎悪」は殺意にかわるしかないだろうが、「目に入りさえしなければ良い憎悪」もありうる。これは殺意にまでは発展しないだろう。個人的には夏の黒い悪魔、Gに対しては後者と同様の嫌悪を抱いている。進んで探し出して殺すほどではないということだ。

 殺意にもいろいろあるなぁということが意識に前景化したのは今週の刃牙も大いに関係があるわけだが。先述の言語化しがたい戦闘に対する興奮、感動も殺意の一種なのだろうか。純粋な戦いの喜びや美しさを感じる感性はこれに類するものだと思うのだが、この辺りについては今後も思索を深めていきたいものだ。自分の中には明確にそれも様々な種類の殺意があるのを実感しているゆえに。そこには美しいものも醜いものもある。興味が尽きない。

 

 

 

 

 噓食いの話もするつもりだったが、時間と気力が足りない。

 

 

 日記的なメモ。おとといから新しい趣味、いや、古い趣味を復活させた。わたしは学生時代の学問の習熟度に全く満足できないまま卒業してしまった。ので、再び数学を始めた。昔と違い今のわたしには脳に対するちょっとした理解とそれに基づいた学習アルゴリズム、およびわずかばかりの計画性がある。どれもかつてのわたしには毛ほどもなかったものだ。(そして本来大学受験ごろには身に着けているべきものでもある。特に計画性・・・)

 やはり数学はいい。かつてのわたしは数学に神を見た。そして数学の非人間性を称揚した。いまならばほとんど同じことをこう書こう。わたしは数学の中に人間の純粋で美しい部分だけを見た。そして数学には人間の醜さが表れないことを言祝ぐ、と。

 数学書を読み、ノートを取り、証明を自ら書き、計算をしていると、とてもさわやかでそれでいて高速な気分になる。素振りをしている時とよく似た気分に。これを幸福と呼んでもよいと思う。かつて至れなかった場所に、今度こそ立ってみたいものだ。

 

おわり。