ヒーローについて
禁じ手とか、奥の手なんてのは、俺にはねぇ。人はだれしも持っている手札で勝負するしかねぇんだ。俺のカードは剣(これ)一枚きり。言ってみりゃぁ、俺ぁ最初から切り札を切ってるってこったな
───???
ヒーローとは何か、について考えてみる。ひまつぶし、に近いが、しかしそうじゃぁない。そうじゃぁないんだ。俺は暇ではねぇし、明日も早い。だが、いま、刻んでおかなきゃならねぇんだ。
最近正義の味方について考えることが増えた。エミヤオルタのせいかもしれない。あるいはヒーローアカデミア。いや、きっと社会情勢のせいだな。
正義の味方とは何か、について考えることは今はしない。正義とはなにかについて考えなければならないからだ。
ヒーローとは何かについて考えるといったが、すまん、ありゃぁうそだった。これから先は、英雄、正義の味方、ヒーローが俺の中でどう違うか、その分類と構造を思いつくまま刻み付ける。
英雄、これが最も基本的で最も望ましい概念だ。俺が描く英雄像は言ってみれば掃除のおじさんさ。誰にだってできること、やって当然のことを当然のようにできる人間。街で目についたごみを拾ったり、家族に飯を作ったり、皿を洗ったり。そういう「いともたやすく行われる英雄的行為」ができる人間だ。掃除に終わりはない。掃除に進歩はない。だが、死ぬまで誰かがやらねばならない。それが英雄的行為だ。価値を生み出しているわけではないから金にはならないことがほとんどだろう。世界を豊かにする行為ではないからだ。それは世界を維持するための行為。評価されにくく、忘れられがちな行為。
誰かの陰口、悪口を言うこともなく、まっとうで信義を大事にする人間。誰でもなろうと思えば容易くなれる、それが英雄だ。もっと砕けていえば大人ってやつだろう。善人と言い換えてもいいかもしれない。いや、良くない、な。悪行をなす無垢なる善人はごまんといやがる。善人という単語に俺はなじみがねぇということが今わかった。この言葉は今は捨て置こう。
英雄は誰でも容易くなれるものでなければいけない。母数が絶対的に必要だからだ。
世界を守るために。人間が成熟するということは即ち英雄になるということでなければならない。
正義の味方とは、なんだ?悪の敵だ。そしてそれは英雄でなくともできる。悪人でも正義の味方になれる。人格の善悪と行為の善悪は相互に影響しあうが、しかし別のものとして扱う。
つまり正義の味方という概念と英雄という概念は独立だ。どちらかでしかないやつ、両方を兼ね備えたやつ、どちらでもない悪党、がいることになる。
最後の議題だ。ヒーローは英雄の上位概念として扱う。英雄に更なる価値が付与されたものだ。それは「偶像性」だ。ヒーローアカデミア風に言うなら「象徴」。人の上に立つもの、人を導くもの、人を鼓舞するもの、人を救うもの。
イチローは野球少年のヒーローであろう。宮本武蔵はチャンバラ少年のヒーローであろう。エトセトラエトセトラ。
ヒーローには自然(じねん)、チカラが必要だ。それはカリスマかもしれないし、卓越した実績かもしれないし、あるいはもっと生々しく単なる暴力であるかもしれない。
普通、正義の味方、英雄、ヒーローと呼ばれるのはこれだろう。「みんなのヒーロー」、だれでもなれるものではないと通常言われるもの。
俺はこれで俺の頭を整理できた。ヒーローは誰でもなれるものではない、と言われるとき、常に俺は怒りを覚えた。それでは人は救えない、ヒーローの手が足りない、誰もがヒーローたりうべき、貴様はヒーローたらんと踠(もが)かないのか。
やっと俺はこの怒りから解放される。語彙が食い違っていたことにすればよい。ヒーローと英雄は違う概念だ。「誰もが認めるヒーロー」になどならなくてよい。「たった一人にとってのヒーロー」、ただの「英雄」でいい。誰もそう呼ぶやつがいなくても、いい。
正義の味方は行為によって決定される。英雄は生き方によって決定される。そしてそれは自分で決めることができる。
ヒーローは違う。ヒーローであるか否かを決めるのは行為や結果等々ではない。それは他人が決めることだ。なりたくてなれるようなものではないし、なりたくもないのに祭り上げられてしまうものだ。ヒーローの偶像性というのはそういう意味だ。
最後の言の葉。
次に問題になってくるのは、ヒーローは必ずしも英雄か、ということだ。ここまではヒーローの前提条件として英雄であることを要求した。ヒーローならば英雄である。しかしそれでは、悪人だが、正義の味方であるタイプのヒーローは存在しない。
そう、ダークヒーローがこれでは存在しない。
ヒーローの定義を俺は書き換えるべきなのか。あるいはダークヒーローはヒーローとはまた別の存在なのか。決着はまだ、つかない。
これで、寝られる。じゃぁな。