メモというか
リアリティという感情について。人間の、人類の抱えるほぼ100%の問題は、この感情、感覚に対する誤認、誤解によるものではないだろうかという気がしてくる。
まず、大問題であるのが、リアリティは感情であって理性的判断ではないということだ。情報として「事実、現実である」性が付与されてもそれはリアリティの構築の主因たりえないのではないか。情報としての現実性は、実感としての現実性を必ずしも立ち上げることができない。それはリアリティ、実在感が感情だからであろう。感情は体験によって励起される、知得によってではなく。
しかし、それらはデジタルに、離散的に、白と黒とに切り分けることができない。歴史に何の感情も抱かない人間もいれば、年表を眺めるだけでわくわくする者もいる。情報を体験できるものがいる。歴史を学んで差別主義者になるものもいる。歴史を学んで未来につなげようとする者もいるだろう。ニュースを観て何も感じないものもいれば真に憤るものもいるだろう。何がリアルか、何が感情を励起させうる体験になるのかが各々異なるからだ。リアルと虚構の領域が一つ一つの脳内で独立に形成されているからだ。
どこから話を始めればいいのか。ただ、ずっといっていることは、根源的区別不可能性の認知と対処を唱えているのだろう、きっと。かつて誰かが唱えたことと同じことをわたしは違う形で言っているのではないかという気がしてくる。
真理などないといっているのではない。真理と虚構の区別はあいまいだと言っている、のでも、実はない。
うまくいえない。何も言えない。ただ義憤にかられて叫びだしたい衝動だけがある。哲学をしたいわけでもない。こんなものは哲学ではない、ただの現実だ。
脳。政治。虚構。意識。自然科学。経済。嫉妬。表現。すべてが同じ困難に見える。なにもまとまらない。何も浮き彫りにならない。
終わりだ。