ジャンプ21・22合併号の感想+α
「ふざけるなっ!ふざけるな!ばかやろうぉぉおお!!」
ーーー衛宮切嗣
イェイ♪好きなラーメンはとんこつ醤油!門倉亜人だぜ☆
マンガは好きかぃ?ジャンプは好きかぃ?少年の心を忘れていないか?つまらない大人になってはいないか?
・・・よろしぃ、ならばジャンプだ。ジャンプの感想だ。覚悟または興味があるものは続きを開くといい。
そうか、惜しかったな、次は、勝てよ。勝利の美酒とやらの味、俺は知らんが、お前は味わうといい、いずれな。
それにしても相撲において腹はあぁ使うのか、知らなかったぞ。勉強になった。
時を駆ける蕎麦、だと!?くだらぬ!実にくだらぬリアクション芸だ!と言いたくもなるがしかし、その実、的を得ている。本当においしいものとはそういうものだ。いつの間にかなくなっているのだ。くいたぃ、くいたぃなぁその蕎麦。グルメマンガ等の実力はいかに読者にそれを食いたいと思わせられるかどうか、が一つの指標として重要だ、言うまでもないことだが。この蕎麦は食いたい。くいたいぞ。
だが意外なことに最後に現れたソーマの蕎麦、これもまたすでにくいたいぞ。個人的感情としては紀ノ國寧々に勝ってほしいし、蕎麦もうまそうで実に苦しい。しかし勝ち残りの団体戦で初戦に主人公と対戦するということは・・・いかん、考えてはいかん。
(どうでもよいがカップ麺の蕎麦も工夫次第で案外うまいものだ。溶き卵を傍らに用意して任意につけ麺にするのは、こぅ、悪くないぞ。)
- ワンピース
ジンベェの親分決まりすぎでしょ。モチモチの実のモチ人間ってロギア系なの?パラミシアじゃない?まぁこの辺りはあまりつっこまんでおこう。いよいよ本番、戦闘開始だ、面白くなってきた。
- 左門君は召喚士
一日千秋、千夜一夜よ、待ちに待ったぜこのカード!てっきりコンビ技を見せてくれるものと思い込んでいたがそうだな、このクラス差でそれはないわな、格が、次元が、位相が、位階が、種族が違う。片や悪魔、片や神だ。人間風情の割って入れる余地などどこにもねぇ。
・・・と思っていた時期が、俺にも(数ページ分)ありました。やっちゃえ左門!ギャハハハハハハ!!痛快!今週の左門君は全体としてとても痛快!!とくにベルゼビュートが殴り掛かる初めの三コマ!これが時が観えるコマ割りってやつですかぁ!?ヒャッホゥ!マステマも出番があって俺のテンションはサイコーだぜ!☆
(先週はタイトルについてトンチキな発言をしてすいませんでした。「僕の」でした。)
サーナイトアイは本当にいい人だなぁ・・・そうは思いませんか。
「二人を責めないでやってくれ」
「わたしの責任だ」
「誰よりも悔しいのはこの二人だ」
このセリフ群を言えるキャラクターをそうそう知らないよ、わたしは。初登場時こそなんて回りくどい嫌がらせをする野郎だ、面白れぇとは思ったが、ふたを開けてみればなんと優しい・・・オールマイトの回想のくだりといいパトロールの時の「わたしの責任だ」発言といい。サーナイトアイの優しさに今、わたしは、わたしは。
守れなかった・・・彼らデクとルミリオンの衝撃と絶望に似た感覚、血の気が引くというか、足元が瓦解してしまうような感覚が伝わる、キツイ話だった。画が良かった、伝わった。
職業・ヒーローになるということは、こういうことなんだろう。死柄木さんのような幼稚で分かりやすい悪意ではない。大人の容赦なく、そしてえげつない臭気(あくい)にこれからもさらされ続けるだろう。だが、けして立ち止まってはならない、飲み込まれてもいけない。がんばれヒーロー、まだ、なにも終わっていない。
死穢八齋會(やっと漢字覚えた。先週まで間違ってた)、いやぁ悪い大人の感じするね。嫌いじゃないどころかむしろ好きなんだけど、オーバーホール。ま、それは別としてやっぱり悪いねぇよくないねぇ。惨たらしく絶命すべきだねぇ。ぜひ、素晴らしい死に様を期待してます。死はエンターテインメントとして機能するからね、適切に演出すれば。死はまさにエンターテインメント!いや、そもそも生とは?生もまた、むしろそれこそがエンターテインメントでは?いやはや、「生と死は等価値なんだ、僕にとってはね」などとうそぶきたくなってくる。
順調に悪いやつアピールが功を奏していてよいね、いや、悪いのかしら。あと今週はファットガムが好印象だね。素朴な正義感がとても心地よい。ステインもきっと認めてくれるだろう。心配なのはちょいちょいカマしてくるアフロだかドレッドだかみたいなや~つ、だいじょぶ?ステインチェックする?粛清する?個人的にちょっぴり気になりますね、モブで終わるのか、それともその英雄たる証(ヒーローライセンス)を魅せつけてくれるのか、要注目。スルーされる気がするけど。
まとめ。今週はヒロアカと左門君がとくに良かった。ジャンプの話は以上!
前回メモしたことの続き。二次創作、一次創作という言葉に対する個人的な感覚というか違和感について。
二次創作という単語の正確な定義をわたしは知らないが、そんなものはどうでもよい。(もちろん著作権云々の法律、権利関係の文脈では定義されてしかるべきであるが)
「語の意味とはその使用である。」と喝破したのは彼の偉大なる哲学者、ウィトゲンシュタインではあるが、(これから哲学や分析哲学の話をするわけではないから安心してくれ。そもそもそんなことが可能な知識量はわたしには無い。)「二次創作」という単語はおおむね、ある創作に対してそのキャラクターや舞台装置をつかって非原作者が創作したもの、という意味で使われていると思う。誰が書いたのか、公式なのか否か、が重要な要素とみなされている。それはもちろん正しい。
ただわたしがここでいいたいのは、それと少し違うニュアンスも包含しているのではないか、もっと端的に言うと、公式や原作者の手によるものであっても、元の世界とことなる世界、並行世界設定や別時代設定であれば「二次創作」的な感触がある。ということだ。何を言っているのかと思われるかもしれない。わたしもうまく言葉を選ぶことに失敗している感覚はある。ともあれ、「原作」と「二次創作」を分ける基準として「原作者(公式)」の手によるものか否かだけでなく、そも「同じ世界か否か」も基準としてある。
たぶん何を言っているかわからないと思うから具体例をあげよう。
ジョジョリオンを上げると、(ジョジョリオンほかジョジョのネタバレをする。)
ジョジョは第六部において宇宙が一巡し、それまでも歴史がリセットされた。新しい宇宙の物語が7部から始まった。これはもちろん普通の意味でジョジョ7部からジョジョリオンまで、原作者荒木飛呂彦の手によるものだから原作、一次創作とよぶが、ある意味で、先述した意味で、個人的な感覚として「二次創作的」だ。宇宙が変わったからだ。違う世界の話が始まっているからだ。7部以降はある意味でそれ以前のジョジョのパロディ、二次創作という感触がある。
FGOはフェイトシリーズのだから「二次創作」なのだ。原作者が作っているけども、公式の商業作品ではあるけども。
・・・自分でも何が言いたいのか判然としなくなってきた。法律とか権利の話がしたいのではない。享受者の心構えの話だ。マンガの実写化はすべからく二次創作だ、だからまぁそういう気分で観たり観なかったりしませんか、ということだ。
FGOのエミヤはあのエミヤではないかもしれないし、るろ剣キネマ版はるろ剣ではない。
(だから個人的には並行世界の話とかタイムスリップものとかリメイクはあまリやるべきではないのでは?とも思う。それは二次創作になってしまう。たとえ原作者が手掛けたとしても。)
・・・投げっぱなしジャーマン!!