人間の未だ常識化されざる視力について
「人間には未知の部分がある」 スティールボールラン ジャイロ・ツェペリ
目を鍛えよう。こころを蝕む害悪からその繊細な脳を守るために。
何の話かと思われるでしょう。簡単に言えばネタバレとその回避法の話です。多くの情報が簡単に手に入る時代です。有用な情報ももちろんあふれていますがそれと同様いやそれ以上に有害な情報もまた、巷にはあふれています。そうした見えない暴力から身を守るための、自衛が必要なのです。棋士、羽生善治は情報は捨てることのほうが大事、情報はいかに捨てるか、といった趣旨を著書にて述べていますが全くその通りであります。さらに加えて、情報の拒絶の仕方もわたしは重要と考え、ここに推奨する次第なわけです。
「目に映る」という現象と「見る」という現象は別のものです。まずはこのことを認識することから、「目」の鍛錬が始まります。英語のLOOKとSEEが違うということの本質がきっとここにあるのではないかと思いますね。ある情報が目に飛び込んできたとき、(いまから述べることはなんの科学的知見にも基づかない憶測、妄想、個人の経験によるものであることは注意してください)意識がそれを認識するより先に、前ー意識とでも呼ぶべきものが、それを瞬間的に処理します。直感的処理、と呼べるでしょう。目に映ったものが何なのか、意識が理解する前の段階のことです。ここにラグ、段階の差があることが重要です。このときに不快感を覚えたならば、すぐさま意識を遮断します。趣味の合わない二次創作とか、グロリョナ画像、あるいはネタバレ等々をここで拒絶するのです。「目には入ったが読んでいない」、「目に映ったが、認識しない」を実現しようと試みましょう。
やれば、できます。
練習方法。
そう、しようとすること。目のピントを瞬時に変化できること。など。
補足説明。
嫌なら見るな、ということは簡単ですが、実践はとても難しい。なぜなら、一旦認識しなければそれが不快かどうか判断できないからです、通常は。その判断を、理解せずできるようになりましょうというのが今回の眼目です。人間の能力は無限、ではないでしょうがこのぐらいならできます。これは人間の「先見性」の初歩的応用です。わたしはこうしたオカルト(未だ科学に取り上げられていない領域というぐらいの意味でこう表現します)能力を人間の必須技能として重要視します。「人を見る目」、「本質を見抜く目」、「先見性」、「目」です、「目」。「目」を鍛えましょう。
もうこれ以上傷つけられないために。