Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

ジャンプ30号の感想+α

オイラーを読め、オイラーを読め、オイラーを読め。

オイラーは我々すべての師だ。

───ラプラス

 

 どうも、源頼光は先週の火曜に引けました、門倉亜人です。二日でできる育成が終わりました、しばらくスキルには手を付けられません。まぁ高レアアタッカーはステータスが一番重要なのでスキルは後回しでいいんです、えぇ。負け惜しみじゃありません、・・・本当ですよ?(ス並感)

 

 さて、ジャンプを読みましょう。

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ジャンプ28号の感想+α

全ては

正しき

社会の為に

───ヒーロー殺し・ステイン

 

 おはようございます、好きなジャンプ主人公(ヒーロー)は緋村剣心、門倉亜人です。月曜日ですので、ジャンプの感想とか日記的なものを更新いたします。続きからどうぞ。

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いつものメモ───愛と塩

おいしくつくろうという情熱

───魔神探偵脳噛ネウロより

  ドーピングコンソメスープのレシピ、最後の一項目

 

 どうも、好きなラーメンは豚骨醤油、門倉亜人です。

 というわけで思いついたことをちょことメモする。

 

 料理の良さとは何か、良い料理とはなにか。言うまでもなく、それは「おいしさ」である。おいしい料理こそが良い料理であり、まずい料理は悪い料理だ。

 おいしいけど健康に悪い、別にうまくはないがダイエットに良い、そういう良さもある、という話をしたいのではない。

 誰と食べるか、あるいはだれが作ったか、という要素も時にはおいしさ以上に大事だ。家庭の味とか、隠し味は愛とか、そういう話だ。この二つの評価軸の対立をやや趣味的にこう呼ぶとしよう。

 「愛と塩」の対立、と。

 これは比喩でありたとえ話であり話の本筋ではない。この構造は様々なところで見られるに違いない。過去のこのブログを読んでいる読者諸賢はすでにお気づきと思うが、漫画とかフィクションの話だ。良い物語、よい創作とは?マンガの良さとは?エンターテインメントの評価基準はもちろん、「面白さ」だ。面白いマンガこそが、よいマンガだ。

 だが、それだけでよいのだろうか。そして、面白さ以外のマンガの「良さ」とは?それに名前を付けることが今までできずにいた。

 いま、まさに今わかった。これを書いている今、わかった。この名状しがたき対立を扱うためにまず名付けたいという衝動がこの一連の文字列を生んだのだ。自分でもなぜ急にこんな話をしだしたのか、料理の話を書き始めたのか判然としなかったが、今!自分で書いていて分かった。面白さに対立する概念にラベルづけることができなかったゆえに「愛と塩」という比喩をひねり出したのだ。我ながら卓抜である。

 ふたたびいま思い至ることだが、面白さと別のこの名付けえぬ価値とは、「根源性」にかかわる何ものかであろう。その根源性ゆえにまた語りにくく、名付けえなかったに違いない。

 今後はこの話を「愛と塩問題」と呼ぶ。

 だが注意せよ。愛情たっぷりの料理がうまいに越したことはない。いや、親の飯はうまい方が良いに決まっているのだ。愛に対するこの、塩の優位性!を忘れるな。

 

 このメモは少なくともわたしにとっては面白い。よい時を使った。

 

では、また。

ヒーローについて

禁じ手とか、奥の手なんてのは、俺にはねぇ。人はだれしも持っている手札で勝負するしかねぇんだ。俺のカードは剣(これ)一枚きり。言ってみりゃぁ、俺ぁ最初から切り札を切ってるってこったな

───???

 

 ヒーローとは何か、について考えてみる。ひまつぶし、に近いが、しかしそうじゃぁない。そうじゃぁないんだ。俺は暇ではねぇし、明日も早い。だが、いま、刻んでおかなきゃならねぇんだ。

 

 最近正義の味方について考えることが増えた。エミヤオルタのせいかもしれない。あるいはヒーローアカデミア。いや、きっと社会情勢のせいだな。

 

 正義の味方とは何か、について考えることは今はしない。正義とはなにかについて考えなければならないからだ。

 ヒーローとは何かについて考えるといったが、すまん、ありゃぁうそだった。これから先は、英雄、正義の味方、ヒーローが俺の中でどう違うか、その分類と構造を思いつくまま刻み付ける。

 英雄、これが最も基本的で最も望ましい概念だ。俺が描く英雄像は言ってみれば掃除のおじさんさ。誰にだってできること、やって当然のことを当然のようにできる人間。街で目についたごみを拾ったり、家族に飯を作ったり、皿を洗ったり。そういう「いともたやすく行われる英雄的行為」ができる人間だ。掃除に終わりはない。掃除に進歩はない。だが、死ぬまで誰かがやらねばならない。それが英雄的行為だ。価値を生み出しているわけではないから金にはならないことがほとんどだろう。世界を豊かにする行為ではないからだ。それは世界を維持するための行為。評価されにくく、忘れられがちな行為。

 誰かの陰口、悪口を言うこともなく、まっとうで信義を大事にする人間。誰でもなろうと思えば容易くなれる、それが英雄だ。もっと砕けていえば大人ってやつだろう。善人と言い換えてもいいかもしれない。いや、良くない、な。悪行をなす無垢なる善人はごまんといやがる。善人という単語に俺はなじみがねぇということが今わかった。この言葉は今は捨て置こう。

 英雄は誰でも容易くなれるものでなければいけない。母数が絶対的に必要だからだ。

世界を守るために。人間が成熟するということは即ち英雄になるということでなければならない。

 

 正義の味方とは、なんだ?悪の敵だ。そしてそれは英雄でなくともできる。悪人でも正義の味方になれる。人格の善悪と行為の善悪は相互に影響しあうが、しかし別のものとして扱う。

 つまり正義の味方という概念と英雄という概念は独立だ。どちらかでしかないやつ、両方を兼ね備えたやつ、どちらでもない悪党、がいることになる。

 

 最後の議題だ。ヒーローは英雄の上位概念として扱う。英雄に更なる価値が付与されたものだ。それは「偶像性」だ。ヒーローアカデミア風に言うなら「象徴」。人の上に立つもの、人を導くもの、人を鼓舞するもの、人を救うもの。

 イチローは野球少年のヒーローであろう。宮本武蔵はチャンバラ少年のヒーローであろう。エトセトラエトセトラ。

 ヒーローには自然(じねん)、チカラが必要だ。それはカリスマかもしれないし、卓越した実績かもしれないし、あるいはもっと生々しく単なる暴力であるかもしれない。

 普通、正義の味方、英雄、ヒーローと呼ばれるのはこれだろう。「みんなのヒーロー」、だれでもなれるものではないと通常言われるもの。

 

 俺はこれで俺の頭を整理できた。ヒーローは誰でもなれるものではない、と言われるとき、常に俺は怒りを覚えた。それでは人は救えない、ヒーローの手が足りない、誰もがヒーローたりうべき、貴様はヒーローたらんと踠(もが)かないのか。

 やっと俺はこの怒りから解放される。語彙が食い違っていたことにすればよい。ヒーローと英雄は違う概念だ。「誰もが認めるヒーロー」になどならなくてよい。「たった一人にとってのヒーロー」、ただの「英雄」でいい。誰もそう呼ぶやつがいなくても、いい。

 

 正義の味方は行為によって決定される。英雄は生き方によって決定される。そしてそれは自分で決めることができる。

 ヒーローは違う。ヒーローであるか否かを決めるのは行為や結果等々ではない。それは他人が決めることだ。なりたくてなれるようなものではないし、なりたくもないのに祭り上げられてしまうものだ。ヒーローの偶像性というのはそういう意味だ。

 

 最後の言の葉。

 次に問題になってくるのは、ヒーローは必ずしも英雄か、ということだ。ここまではヒーローの前提条件として英雄であることを要求した。ヒーローならば英雄である。しかしそれでは、悪人だが、正義の味方であるタイプのヒーローは存在しない。

 そう、ダークヒーローがこれでは存在しない。

 ヒーローの定義を俺は書き換えるべきなのか。あるいはダークヒーローはヒーローとはまた別の存在なのか。決着はまだ、つかない。

 

 

これで、寝られる。じゃぁな。

ジャンプ27号の感想

貴様の選んだ道は難工事を極めるだろう

だが余はもはや止めはせん

世界の工事を頼んだぞ

───ゲンバー大王

 

オッス、オラニート。いろいろと難しくなってきたぜ。

 

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メモというか

 

 リアリティという感情について。人間の、人類の抱えるほぼ100%の問題は、この感情、感覚に対する誤認、誤解によるものではないだろうかという気がしてくる。

 

 まず、大問題であるのが、リアリティは感情であって理性的判断ではないということだ。情報として「事実、現実である」性が付与されてもそれはリアリティの構築の主因たりえないのではないか。情報としての現実性は、実感としての現実性を必ずしも立ち上げることができない。それはリアリティ、実在感が感情だからであろう。感情は体験によって励起される、知得によってではなく。

 しかし、それらはデジタルに、離散的に、白と黒とに切り分けることができない。歴史に何の感情も抱かない人間もいれば、年表を眺めるだけでわくわくする者もいる。情報を体験できるものがいる。歴史を学んで差別主義者になるものもいる。歴史を学んで未来につなげようとする者もいるだろう。ニュースを観て何も感じないものもいれば真に憤るものもいるだろう。何がリアルか、何が感情を励起させうる体験になるのかが各々異なるからだ。リアルと虚構の領域が一つ一つの脳内で独立に形成されているからだ。

 どこから話を始めればいいのか。ただ、ずっといっていることは、根源的区別不可能性の認知と対処を唱えているのだろう、きっと。かつて誰かが唱えたことと同じことをわたしは違う形で言っているのではないかという気がしてくる。

 真理などないといっているのではない。真理と虚構の区別はあいまいだと言っている、のでも、実はない。

 

 うまくいえない。何も言えない。ただ義憤にかられて叫びだしたい衝動だけがある。哲学をしたいわけでもない。こんなものは哲学ではない、ただの現実だ。

 

 脳。政治。虚構。意識。自然科学。経済。嫉妬。表現。すべてが同じ困難に見える。なにもまとまらない。何も浮き彫りにならない。

 

終わりだ。