リアリティについての雑感
ふはははは!!余である!門倉である!皆、息災か!?(挨拶)余はもうだめである!ははははは!余の世界に希望(ひかり)なし!余の生活(じんせい)に続編(みらい)なし!よい、赦す!いずれ来る好機を待つもよし!このまま朽ち果てるもよし!
表題のごとくである。世界(観)と享受者の態度の違いまたはその間(あわい)についてつらつらと述べる。
ミステリ小説が苦手である。リアリティを感じることがあまりない。例外はあるが。享受の場面におけるリアリティとは享受者の世界への没入感と同義といっていいだろう。ミステリに没入することは多くの場合わたしにとり難しい。登場人物がまるで死ぬために配置されているように感じること多々。謎が主で人(キャラ)が従、そのような印象を受けた時、もはやかの世界に没入すること能わず。
著名な漫画家、荒木飛呂彦はその仕事術を公開した著書「荒木飛呂彦の漫画術」で概略このように述べていた。できることなら引用したいのだが手元に見つからないので、記憶に頼らせてもらう。
「読者はその世界に没頭したいのであって、それを妨げるようなことは決してしてはいけない、冷めさせては失敗である。」
と。ミステリは冷める。世界に没頭できない。
しかし、ミステリの主役は文字通り「謎(ミステリ)」であるのだろう。であれば、謎が主であるのはむしろ尤もといえる。そしてミステリは根強い人気があるジャンルであることは疑いようもない。
ここである視点の転換がわたしに生じる。ミステリ読者は世界に没頭したいわけではない?のか?と。ただ謎に対面したいのか?と。
享受者の態度にはいくつかの種類があるということが分かってくる。普通は小中学生くらいで気づくものなのだろうが。世界観や謎という要素はいうなれば舞台装置だ。人(キャラ)がそこで運動し生活するための地面、それは生存にとっての酸素のごとく重要なものだが、我々は呼吸をするために生きているのではないのと同じく、わたしは舞台装置を見たいわけではない。が、舞台装置を見たい享受者というものもいるのだ。たしかに、テーマパークのアトラクションなどにはそのようなギミックを楽しみに行くという態度があり得、それは想像できる。ミステリや人によってはSFなどもその型(タイプ)の享受があるようである。そして思い返してみるならば、そのような享受の型を自らも行った覚えがある。サメ映画とか、なんかそういういわゆるB級のようなバカ映画に対して。
伊藤計劃は議会フェチだったそうである。エヴァンゲリオンのゼーレのようなものだろう。わたしもすこしそのケがあるような気もするが、伊藤計劃の記述に接するまで自覚がなかった。この享受も今思えばこのような型(タイプ)の享受ではないか。
創作(フィクション)の享受にはいろいろある。リアリティ(没入感)の深浅は、享受者の趣味態度、作品のジャンルなどによっても変わってくるし、またデジタルに分けられるものでもない。バカ映画のつもりで見ていたら思いがけず引き込まれてしまったということは全く普通にありうることだ。
享受の型(タイプ)とリアリティの関係についてすこし考えてみた。この話題はもう少し粘るべき感触もあるが、今回はここまでにしておく。この構造はかなり複雑でかつ動的であるだろう。以前から述べている「面白さの3分類」にも関わるに違いない。というより、これはその別の側面からの分析、だろうか?
最後に思いついたことを少し。世界への没入感は人物(キャラ)への感情移入を含むが、それのみに縛られるわけではなさそうだ。
随筆なので続かないだろう。以上。
FGO日記
どうも、門倉亜人です。好きなコマンドカードはバスターです。戦略を立てるのは脳筋できない弱者のやることです。
最近FGOのプレイスタイルが変わってきたのでぼそぼそ日記にします。
我々マスターは弱者です。資源は有限であり、ステータスも上限があり、打てる手(コマンドカード)も限られます。部下に気持ちよく脳筋させるために弱者である我々は戦略を練ります。
イベントで周回用のパーティを組む必要に迫られた結果、新しい組み合わせや戦略に目覚めてきましたね。最近覚えたパーティの組み立て方の基本的な思想は、「優先的にコマンドカードを選びたい奴は二人まで」です。サポートにしろアタッカーにしろ、コマンドカードで敵を殴らなければ活躍が見込めないやつは二人までにしておこう、ということです。コマンドカードは一人五枚の三倍で十五枚のうち、三ターンで九枚しか選べないので、優先したいカードばかりでは力を発揮できないものが現れます。スキルで十分活躍できる、または礼装を持って立ってるだけで役に立つやつを入れましょう。スター集中傾向を傾斜させて星を生むだけでも活躍といえます。(でも本当は三人全員が互いに支援しあうアタッカーで組みたい。)
その思想で組まれたパーティが、
エドモン、ハロエリ、ビリー(または小次郎)
です。ハロエリちゃんは突っ立てるだけで活躍です。かわいいし。かわいいは活躍です。
ところで、最近カーミラさんの強さに気が付きました。敵を殴ってNPをためるタイプなのでガンガン殴りにいかないといけません。殴ってクリッて宝具でグルグル。なるほど、なるほど。NP効率的な意味での星の有用性に目覚めた今、ますます欠片礼装がほしいですね。ない。
X・オルタもいない。欲しさでいうと山の翁の次くらいに欲しい。沖田くらい。
新しいパーティを回しても一度解体すると翌日には忘れてしまいます。チョコ集め用のパーティがもう思い出せない・・・
終わり。疲れの感じられる日記ですね。たぶん続きません。
新年のあいさつ
あけましておめでとうございます。
とりあえずご挨拶だけ。
雑談
どうも、好きな十本刀は魚沼宇水。門倉アァトです。
彼は他人とは思えない。わたしもそのうち信念を貫けず、惨めに死ぬんでしょう、きっと。具体的な死を知らぬまま、観念としての死にばかり取りつかれて十のころからいままで生きてきました。
書くことがないにも関わらず書きます。
面白いことがないという感じがし続けています。そう表現してしまうとそれは偽りなのですが、しかし気持ちとしてはそうなのです。何をしてもすぐに瞬間に刹那におもしろきことは忘却へ消え去り、虚しさと残り火のような微かな怒りばかりの生活をしています。
まぁいいです。面白かったことの話をします。
今週もジャンプは良かった。やはりヒーローアカデミアが特に。自分の好みはやはりキャラターによるところが大きいのでしょう。面白いやつ、カッコいいやつ、強いやつ、他人とは思えないやつ、会ったことはないが友達だと思えるやつ、そういうキャラクターがいる漫画が、わたしのとくに執着する面白いマンガです。ヒーローアカデミアはその傾向がとても強い。善きにせよ悪しきにせよ、キャラクターが大変魅力的です。
てきとうな話をします。たびたび取り上げていますが、面白さの三分類について書きつらねます。
おさらい。わたしが個人の趣味で考えた面白さの三分類とは、
「刹那的な面白さ」、
「物語的な面白さ」、
「根源的な面白さ」
の三つでした。キャラクターの魅力についてこの観点からしゃべりたいです。この分類は便宜的趣味的なもので、あいまいさがおおくふくまれ、気分や文脈、発言時期によってその意味するところが変わっている恐れがあります。
キャラクターの魅力というものをこの分類に分けようとすると、それは不可能といわねばならない。なぜなら、見た目のカッコよさは「刹那的」であり、言動のカッコよさや人格の高潔さ等の魅力は前後の文脈、時間的な幅と因果的つながりを要求するので必然的に「物語的」であり、というよりもキャラクター(人格)がそも「物語的」である。そして読者(ひと)がキャラ(ひと)に魅力を感じるということは、すでにしてそれだけで「根源的」な事象であろう。キャラクターの魅力というものをどれかに分類するというよりも、この三つの要素がからまって構成されていると考えよう。そうすることで、あるキャラクターに対してそのような分析を加えることで、わたしがそのキャラクターに感じているものを少し理解できるようになるかもしれない。
実際の語りはまたにしよう。