Blut unt Weiß

伊藤計劃に感化された一連の文章の群れ。日記、少年マンガを中心とするオタク趣味の感想および世界を変えるための文章が置かれる。御口に合いますれば幸い

創作する、の2

 「ーー体は理(ことわり)で出来ている。

  血潮は炎(いかり)で、心はくず鉄。

  幾度の戦場を経て惨敗、

  ただの一度も勝利はなく、

  ただの一度も満たされない。

  担い手はどこにもおらず、

  煙の丘で慟哭す。

  その総てはきっと虚飾(うそ)で出来ていた。」

 

そう、わたしです、門倉亜人です。なかなか良いアレンジができた気がします。

創作意欲そそる出来事がありましたので、ゾンビ物の続きです。

 

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雑談

 どうも、好きな十本刀は魚沼宇水。門倉アァトです。

彼は他人とは思えない。わたしもそのうち信念を貫けず、惨めに死ぬんでしょう、きっと。具体的な死を知らぬまま、観念としての死にばかり取りつかれて十のころからいままで生きてきました。

書くことがないにも関わらず書きます。

 

 

 

 面白いことがないという感じがし続けています。そう表現してしまうとそれは偽りなのですが、しかし気持ちとしてはそうなのです。何をしてもすぐに瞬間に刹那におもしろきことは忘却へ消え去り、虚しさと残り火のような微かな怒りばかりの生活をしています。

 

 まぁいいです。面白かったことの話をします。

 

 今週もジャンプは良かった。やはりヒーローアカデミアが特に。自分の好みはやはりキャラターによるところが大きいのでしょう。面白いやつ、カッコいいやつ、強いやつ、他人とは思えないやつ、会ったことはないが友達だと思えるやつ、そういうキャラクターがいる漫画が、わたしのとくに執着する面白いマンガです。ヒーローアカデミアはその傾向がとても強い。善きにせよ悪しきにせよ、キャラクターが大変魅力的です。

 

 てきとうな話をします。たびたび取り上げていますが、面白さの三分類について書きつらねます。

 おさらい。わたしが個人の趣味で考えた面白さの三分類とは、

「刹那的な面白さ」、

「物語的な面白さ」、

「根源的な面白さ」

の三つでした。キャラクターの魅力についてこの観点からしゃべりたいです。この分類は便宜的趣味的なもので、あいまいさがおおくふくまれ、気分や文脈、発言時期によってその意味するところが変わっている恐れがあります。

 

 キャラクターの魅力というものをこの分類に分けようとすると、それは不可能といわねばならない。なぜなら、見た目のカッコよさは「刹那的」であり、言動のカッコよさや人格の高潔さ等の魅力は前後の文脈、時間的な幅と因果的つながりを要求するので必然的に「物語的」であり、というよりもキャラクター(人格)がそも「物語的」である。そして読者(ひと)がキャラ(ひと)に魅力を感じるということは、すでにしてそれだけで「根源的」な事象であろう。キャラクターの魅力というものをどれかに分類するというよりも、この三つの要素がからまって構成されていると考えよう。そうすることで、あるキャラクターに対してそのような分析を加えることで、わたしがそのキャラクターに感じているものを少し理解できるようになるかもしれない。

 

 

実際の語りはまたにしよう。

 

創作する

 『やぁ僕だよ。そう、その名は業(わざ)でできている、門倉アァトさ』

 

 何も手につかなくて辛いので現実逃避に書き物をする。ゾンビ物のつもりだが、多分うまくいかないだろう。「ゾンビが出てくる何かの文章」ぐらいが相当だろう。

 

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クリスマスが近い

 やぁ、こんにちわ。好きな格闘スタイルは正攻法のなかに奇策を混ぜるトリックスター、門倉アァトです。

 

 クリスマスが近いなぁということでそれにまつわる話を一つしてみたい。以下は子どもには開示してはいけない情報が含まれているので、R-18とする。

 

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生存報告

 好きな武器は日本刀、の門倉アァトです。おひさしぶりです。といっても何にも書くことがない、さりとてなにか書いておきたいような気もする。ので、とりあえずツイッターぐらいのノリで時間制限設けてつらつら書きまする。

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人間の未だ常識化されざる視力について

 「人間には未知の部分がある」 スティールボールラン ジャイロ・ツェペリ

 

 

 

 目を鍛えよう。こころを蝕む害悪からその繊細な脳を守るために。

 

 何の話かと思われるでしょう。簡単に言えばネタバレとその回避法の話です。多くの情報が簡単に手に入る時代です。有用な情報ももちろんあふれていますがそれと同様いやそれ以上に有害な情報もまた、巷にはあふれています。そうした見えない暴力から身を守るための、自衛が必要なのです。棋士羽生善治は情報は捨てることのほうが大事、情報はいかに捨てるか、といった趣旨を著書にて述べていますが全くその通りであります。さらに加えて、情報の拒絶の仕方もわたしは重要と考え、ここに推奨する次第なわけです。

 

 「目に映る」という現象と「見る」という現象は別のものです。まずはこのことを認識することから、「目」の鍛錬が始まります。英語のLOOKとSEEが違うということの本質がきっとここにあるのではないかと思いますね。ある情報が目に飛び込んできたとき、(いまから述べることはなんの科学的知見にも基づかない憶測、妄想、個人の経験によるものであることは注意してください)意識がそれを認識するより先に、前ー意識とでも呼ぶべきものが、それを瞬間的に処理します。直感的処理、と呼べるでしょう。目に映ったものが何なのか、意識が理解する前の段階のことです。ここにラグ、段階の差があることが重要です。このときに不快感を覚えたならば、すぐさま意識を遮断します。趣味の合わない二次創作とか、グロリョナ画像、あるいはネタバレ等々をここで拒絶するのです。「目には入ったが読んでいない」、「目に映ったが、認識しない」を実現しようと試みましょう。

 

 やれば、できます。

 

練習方法。

 そう、しようとすること。目のピントを瞬時に変化できること。など。

 

補足説明。

 嫌なら見るな、ということは簡単ですが、実践はとても難しい。なぜなら、一旦認識しなければそれが不快かどうか判断できないからです、通常は。その判断を、理解せずできるようになりましょうというのが今回の眼目です。人間の能力は無限、ではないでしょうがこのぐらいならできます。これは人間の「先見性」の初歩的応用です。わたしはこうしたオカルト(未だ科学に取り上げられていない領域というぐらいの意味でこう表現します)能力を人間の必須技能として重要視します。「人を見る目」、「本質を見抜く目」、「先見性」、「目」です、「目」。「目」を鍛えましょう。

 もうこれ以上傷つけられないために。